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詳細については、以下の記事を見てやってくらぱいませませ〜。
(⌒人⌒)

リニューアルも兼ねてブログお引越しの予告


2010年11月05日

「教育とは?」「共育とは?」から自律型人材について考えてみると?

「自分で考えて行動する「自律型人材(自律型人財)」が育つ組織って?」ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。

さてさて、「教育(共育)から自律的に考えて行動してみる」カテゴリについて、以前ご紹介しておりましたが・・・

「なーんで、教育(共育)ってわざわざ書いてあるんだろう??? (・_・;) 」
「教育と共育って、どう違うんだろう??? ( ̄▽ ̄;) 」

などと感じられた方も、中にはいらっしゃるのではないでしょうか?
(もしいらっしゃったら、超スルドイです♪)

いえなに、本来の意味から考えると「教育」だけでもまぁいいかもしれませんが・・・

日本を含む世界各国の方々に、自律型人材育成(自律型人財育成)のお手伝いをしている経験があるせいか・・・
「三方よしの経営相談」や、「自律型人材育成」「組織力の強化や向上」のお手伝いを行なっていることもあるせいか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるせいか・・・

日本での「教育」は、本来の意味が薄れている場合ってもしかしたら結構あるのかも〜?
などと感じたこともあり、「共育」とも書いてあるんです、実は。
(理由は、それだけじゃーありませんけどねw)

と言っても、チンプンカンプン!という方もいらっしゃると思いますし・・・

それに、もしかしたら・・・

会社の全体像を俯瞰すると気づく事、俯瞰しないと気づけない事って何だろう?
「人材育成で効果が出る事、人材育成では効果が出ない事って何だろう?」シリーズ
自律型人材は、一方的に教えて育てる教育で育てられるんだろうか?
人材育成や教育を「自分ができる事」と「教えられる事」から考えてみると見えることって?
人材育成をマーケティング・コンセプトから考えると見えることって何だろう?
「人材育成とは?何のため?誰のため?どんな時に必要なんだろうか?」シリーズ
「海外の教育現場(共育現場)ってどんなの?自律性や主体性は育つ?」シリーズ
「グローバル人材とは何だろうか?グローバル化や国際化って?」シリーズ
「日本と世界のインフラ事情などから気づく、強みや弱みって何だろう?」シリーズ
「日本人の強みや弱みとは?外国人には真似できないことって何だろう?」シリーズ
「日本の良さとは?外国人や海外経験のある日本人が感じる事って何だろう?」シリーズ
「英語などの外国語の知識があってもコミュニケーションがとれない原因って?」シリーズ
「簡単な日本語、やさしい日本語、外国人が理解できる日本語って?」シリーズ
「日本人の生産性が低い理由って?生産性の向上ってどういう事なんだろう?」シリーズ
「会社や部署、部門等を国にたとえて考えると気がつくことって何だろう?」シリーズ

などなどにも、ある意味関係するっちゃーするかもしれないので・・・

一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。

ちょっと興味あるかも〜?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/

んーと・・・

まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?


■ 教育とは?
Wikipedia
人間がよりよく生き、またそれによって社会が維持・発展するように、人の持つ能力を引き出したり、新たに身につけさせたりする活動。
またキャリア・職業のための教育や社員教育、各種資格や試験のための教育など、特定の目的のために技術的な事項を教え伝達する活動も含む。

洗脳訓練・条件づけなどとは異った、自発的で、個人がよりよく生きること全体に関わるものとされる。


はてなキーワード
他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。
広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう
その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。


○ 文字から考えると:

「(教師・講師・上司・親などが)教えて育てる」

という意味なんじゃーないかなーと感じるんですが、どうでしょうか?


■ 共育とは?
○ 文字から考えると:
「共育」に明確な定義はないようなので、文字から考えてみると、

「お互いに学び合い、教え合い、共に育つ」

という意味なんじゃーないかなーと感じるんですが、どうでしょうか?
身近な「共育」を思い浮かべてみると、例えばこんなのがあるんじゃーないでしょうか?

親が子供を育てていても、子供から学んでいることってたくさんあるんじゃーないでしょうか?
教師や講師だって、学生や受講生などから学んでいることってたくさんあるんじゃーないでしょうか?

「会話のキャッチボールの場」でも、知らず知らずの内に、学んでいることや教えていることってたくさんあるんじゃーないでしょうか?
(「ドッジボールの場」だと、学び難いのかも?とも言うw)

そう考えると、

互いに自律的で、フラットな関係の中で成り立つのが「共育」

と言えるのかもしれませんね。(^^)

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で・・・

次に、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?


「研修開発入門」
「教えること」というのは、昨今、「教え込み」という言葉でイメージされるように、どちらかというと忌避されるような傾向があるように思います。

そもそも、「教えること」とはいったいなんでしょうか。
「教える」とは決して「一方的に何かを伝える」ということではありません。

企業経営における人材育成の意味とは、何でしょうか。

これは最も基本的な問いですが、多くの関係者にとって必ずしも「自明」ではありません。
企業は何のために人材育成をするのかについて、改めて考えたことのない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ともすれば私たちは「そもそも人材育成とは何か」を問わずして、「人材育成をどのように行うか」を考えがちです。

経営学的には、人材育成とは「組織戦略を達成するため、あるいは、組織・事業を存続させるために持っていてほしい従業員のスキル、能力を獲得させることであり、そのための学習を促進すること」であるとされています。

あくまで「手段」であって、「目的」ではないということです。
それでは、その「目的」とは何でしょうか。

いったいどのような場合、どのような機会を通して、「人材育成」が「企業の経営活動に資する行為」すなわち、「経営の役に立つ」ことになるのでしょうか。

また、中長期のレンジで人材育成の流れを見ていくと、歴史的に普遍的かつ不変的な人材育成手法も存在しないことにも留意しなくてはなりません。

人材育成のあり方は、自社の戦略外的環境の変化に応じて、常にベストなあり方が変化していくのです。


「生きる力をつける ドイツ流子育てのすすめ」
家庭でも学校でも、ドイツの教育の目標は「大人になったら一人で生きていけること」である。
自立した大人」になるために、教育をしているといっても過言ではない。

ドイツの教育現場の様子を読んで、疑問をもつ人も多いと思う。
しかし、ドイツのやり方は、将来自力で生きていくための方法・手段だと思っていただければ、ご理解いただけるかもしれない。

ドイツの「自立するための教育」に対して、日本は「まわりの人と仲良くすることを重んじる教育」である。
ドイツの場合は、まずは一人、個人であり、それから人との関係がある。

自立のための勉強をさせるドイツでは、「勉強を教えるのは学校」「子どもの人間形成や礼儀などを教えるのは親」と、役割がかなりはっきりと分かれている。

親は勉強のことはすべて学校に任せ、学校は子どもがプライベートな行動面で問題を起こしても、いっさい責任をとらない。
偏っているという反論もあると思うが、ドイツ人は学校が子どもの人間形成を助ける役割をもつことはできないと考えている。

人間形成はあくまでも親と子どもを囲む社会の責任になるのだ。

ドイツにはいろいろな国の人がいて、文化や宗教もさまざまだ。
イスラム教徒で豚肉の食べられない子どもがいれば、ベジタリアンの 子もいる。
アレルギーの子、宗教上の理由で頭にスカーフを巻かなければならない子など・・・。

世の中にはいろいろな考え方があり、生き方がある。
それをまとめる役として学校は適していないのだ。

これを無理やりまとめようとすると、第二次世界大戦前のように、スパルタ式や全体主義的な教育をしなければいけなくなるかもしれない。
それをドイツ人はよしとしないのだ。

ドイツと日本の2つの国を比較して一見目につくのは「文化の違い」だ。
ドイツと日本は、つくられてきた歴史や文化が大きく違う。

だから、人の考えや生き方が違っても当然だ。
そういう意見があるだろう。
それはもっともだ。

ドイツと日本の両方の教育を受けてきた私は、文化の違いという一言では片付けられない何かがあると思ってきた。
そして、ここに来てはっきりしたこと・・・

それは、子どもの頃に学校で受けてきた教育やシステムの違いが、結果として考え方の大きく異なる大人をつくり出しているという事実だ。

大人になってからの考え方や生き方の違いは、親の教育にもよるが、他人との人間関係を築き、深める学校での十数年間の生活に大きく左右される。

日本人は大人になっても自分の好きなことを見つけられない人が多い。
その証拠に、例えば女性向けの雑誌には、「どうしたら好きなことを見つけられるか」「私の自分探し」「このままでいいの?」などといったタイトルの特集や、悩み相談記事が多い。

日本の学校では小中高と、自分の好きなことをするより、みんなとの協調性や、苦手なことをすることが重要視されているのだから、好きなことに打ち込む能力など育つわけがないのだ。

たとえ6、7歳の子に好きなことに打ち込む能力があったとしても、日本の教育を受けているうちに、その能力は見事になくなっていくだろう。

そして、自分の苦手なことに打ち込むことイコールよいことになり、自分の好きなことにエネルギーと時間をつぎ込むことを悪いこと、わがままなこと、みんなと違うことと感じるようになる。

極端な話、ドイツの場合は、幼稚園では子どもが何かをしたければ3時間ずっとそれに打ち込んでいてよいシステムになっている。
また、小学校にあがってからも、授業は午後1時に終わるので、家に帰って宿題を終えたあとは「自分の好きなこと」にずっと打ち込める。

このシステムで育つことが、大人になってからの仕事に役に立つかどうかはわからない。
しかし、少なくとも、「好きなこと」を自分で見つけて、実際に自分でやってみる能力は失われずにすむ。

だったら学校の中で好きなことを見つければいいではないかと言われてしまいそうだが、学校で習うことは子どもにとっては「義務」である。
「義務」であることを好きになれ、と言われても、それは無理というものだ。

さらに、日本の場合、こうして大人になると、自分の好きでもない仕事を選んでしまう危険性が高い。
小中高と、好きなことをやることを抑えられてきたばかりか、嫌いなことをずっとやらされてきたので、本来は嫌いなことでも「仕事だから仕方がない」と、選択してしまうことになんの抵抗も感じなくなる。

そして、そんな日々が続くうちに、

「やっぱり何か違う」
「毎日が楽しくない」
「でも、好きなことに打ち込む勇気も能力もないし」

となってしまう。

最近ではこういった切実な悩みを、大人たちは、「最近の若者はフラフラしてけしからん」と片付けてしまいがちだが、その原因は、教育にあるということを忘れてはいけない。

また、家庭での教育に関しても似たようなことが言える。

ほとんどの親が子どものことを思っていることは間違いないだろうが、彼らが好きなことをやろうとしているのを無視して、何かにつけ「勉強しなさい」と言いすぎてしまうと、後に好きなことがわからない大人、好きなことに打ち込めない大人を生み出してしまう。

みんなと一緒をよしとして教育を施す日本人は、「和」を尊び「恩」を大切にする。
それに対して、自立した大人をつくり出すための教育を受けてきたドイツ人は、「個」の意見を重視する。

そしてその大人の考え方や生き方の違いがまた、子どもへの教育として異なった形になっていく・・・。

どちらの国の教育が正しいのかはわからない。
それぞれ短所もあれば長所もある。

ただ、その違いを知ってこそ、現状の教育のあり方の問題点が浮き彫りになってくることもある。


日本とドイツ、学習方法に見る隔たり
日本の公立中学校に少しずつ慣れ始めた我が娘。
帰国子女ならではのいろいろな試練が降り掛かってきます。

例えば日本の学習方法。
あまりにも暗記中心なのです。

日本の教育現場では、たとえその事柄を理解していなくとも、“とにかく覚えること”が求められているようでした。

考えること、興味のあることを追究すること、自分の意見を述べること・・・・・・そういう訓練はドイツでたくさんしてきたのですが、記憶力を鍛えるトレーニングは初めてです。

ドイツの先生は言います。
「疑問がないと答えは出てこないんだよ」と。

なるほど、疑問を持つことは学問の始まりかもしれません。

1つの現象や物事をどう見るか、質問の立て方によっていろいろな答えが導き出せる。
世の中の考え方やものの見方は当然1つではない。

こんなドイツの授業風景が、日本に戻ってからは何度も懐かしく思い出されるのでした。


ドイツの16歳の授業に参加して驚いたこと
ドイツの教育政策は国ではなく各州が管轄しており、教科ごと、生徒の学年ごとに教育ガイドラインを策定されている。

「最も重要なのは、生徒たちが自分で考える能力と、それを大勢の前で発言できる能力を養うこと」と先生は語る。
現場の教師たちが意識しているのは、生徒自身の意見を尊重し、教師の意見を押し付けないことだという。

ドイツでは模範解答を求めるよりも、論争することに重きを置く。
民主主義は、異なる意見を共存させ、止揚していくシステムだからだ。

クラスの大多数が同一意見のときには、論争の原則を徹底させるために、先生がわざと反対意見を投げかけることもある。

学校教育の枠組みの中だけではない。
ドイツはじめ欧州各国では、EUという枠組みの中で、若者たちが否応なく民主主義や国家のあり方について日常的に考えさせられる環境がある。

EU加盟国は、これまでに難民危機、経済危機など問題が発生するたびに、自国の国益とEUの理念を天秤にかけながら、議論と交渉によって困難を乗り越えようとしてきた。
メディアはそれを毎日のように報じる。

ドイツの若者たちは、一国家がどのように他国と折り合いをつけながら前進しているかをリアルタイムで体験してきている。
島国である日本とは大きく異なる点だ。

ドイツの教育は2つの世界大戦、特にナチスの過去への反省なくしては語れないだろう。
過去への批判を通して、現在の民主主義を尊ぶ姿勢も自然に生まれてくる。

学校では、第二次世界大戦の強制収容所跡で定期的に校外学習を行い、ドイツ統一記念日の前後には生徒たちによるパネル展を校内で催す。
それは教科を横断し越えながら、自分で考え行動し、平和で民主主義的な社会を担っていく人間を育てるための総合的な教育だ。

ドイツと日本の国民性において最大の違いは、 ドイツ人の自己主張の強さだと思う。
何事においても自分の意見をはっきり言うのが基本姿勢であり、意見を言わないのは「意見がない」ことと同じとされる。

子供たちもまた、公の場で自分の意見を表明できるように育てられる。
学校で受ける教育の成果は大きいと思うが、それだけでなく、自分を主張するドイツの国民性も「議論する文化」に大きく寄与していると思う。

また、日本人として驚きなのは、ゴールデンタイムに、毎日どこかのテレビ局でトークショーを放映していることだ。
現役の大臣や識者が登場し、時事問題について内容の濃い議論を展開する。

それを見ながら引き込まれ、そのうち家族の間でも意見交換が始まっている。
「自分ごと」になれば、民主主義を尊重する気持ちも強まるはずだ。


「ヒトラーに抵抗した人々 - 反ナチ市民の勇気とは何か」
彼ら反ナチ主義を掲げて戦った、「普通の人々」の勇気とはなんだったのか、そして、彼らはどんなふうにあの時代を生きたのか。

それは決して、あの時代特有のことではない。
彼らの活動にいまも学ぶことがあるはず。

ナチの教育を一言で言えば、金太郎飴的な人間人間、つまり没個性の人間を再生産すること。

国民の大多数は、ヒトラーの経済政策に大きな期待を寄せ、彼を支持した。
つまりあれは、「国民の同意による独裁」だったということを忘れてはいけません。

単なるイデオロギーで、国民大衆が12年間もの間、非道な独裁者に対して万歳するなんてありえないのです。
統治の手法として、そこには「ニンジン」が必要で、それは人間の本性を突いているとも言えます。
ヒトラーは、そういうものを巧みに操作し、徹底的な利をもって国民を操ったのです。

一方、処刑された教育学者は知識の詰め込みに熱心な教育者ではありませんでした。
彼が目指したものとは、狭い村社会を超えた、開かれた世界を子どもたちと共有し、自分で考えることができる人間、すなわち、主体的自己を育むことです。

あの混沌とした時代の技術社会で人間が生きていくためには、何よりも自律的で、自分をよく知る人間であることが重要なのだ、と言ったのです。
彼のこのメソッドは、いまのドイツの教育にも受け継がれています。

なかでもとりわけ心に大きく響いたのは、彼が処刑される直前、11歳の娘にしたためたという「最期の手紙」の一節。

「いつでも人には親切にしなさい」
「助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生でいちばん大事なことです」

「だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです」

そうか、学ぶことというのは、そういうことだったのだ。
すとんと腑に落ちた。

人間にとって、学びというものが人生のエンドレスな営みなのだとすれば、この言葉は、わたしたち大人がこれから生きるうえでも大きな指標になると、勇気が湧いた。


教育勅語の現代語訳を読んでみました
はい、天皇です。
よろしく。
ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。

もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。
知ってました?

きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。
そこのところを忘れてはいけませんよ。

その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです。

その点に関しては、一人の例外もなくね。
その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。

そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。

きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと。
そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません。

もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。
よろしいですか。

さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください。

というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。
それが正義であり「人としての正しい道」なんです。

そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです。

いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです。

そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。

以上!


「未来の働き方を考えよう」
これまで、先進国の圧倒的な有利さは、高度な教育を受ける人の絶対数にありました。
基礎教育は世界各国で整備されつつありますが、大学院に学び、博士号を取得するような人材は、その大半が先進国の国民だったのです。

しかしこのような優位性もいつまで保てるかわかりません。

既にネット上には、数学からプログラミングまで、動画で懇切丁寧に教えてくれる無料の教育サービスが登場しており、カバーする領域もどんどん拡大しています。

これを使えば、新興国に生まれても基礎的な教育を無料で受けることができます。
高度な教育を受けるためのコストは急速に下がっています。

教育を受ける機会が均等化すれば、人口の多い国で、より多くの才能が生まれるのは当然のことです。
高度に知的な分野においても、先進国の圧倒的な優位性は大きく揺らぐことになるのです。


「機械との競争」
加速するテクノロジーの変化に取り残されないようにするためには、組織の革新だけでは不十分である。
これを補うものとして、人的資本への投資が欠かせない。

具体的には、教育であり、進化する技術を最大限に活かすためのスキルの開発である。

総合的な生活水準の向上には生産性がきわめて重要な役割を果たすにもかかわらず、そして生産性の向上に教育は飛びぬけて重要な貢献をするにもかかわらず、教育そのものの生産性を計測する系統的な試みはほとんど行われていない。

教育部門が情報技術の活用でも後れをとっているのは、けっして偶然ではない。
教室に並んで腰掛けた生徒を相手に先生が授業をするという基本的な指導法は、何世紀もほとんど変っていないのである。

昔からのジョークにもある通り、これでは教師の講義ノートから生徒のノートに情報を移すだけで、どちらの脳みそも通過しない。
多くの教室では、主な指導技術と言えば、文字通り石灰岩を粉にしたものを黒い大きな石版になすりつけることにほかならない。

この状況をうんと楽観的に解釈するなら、教育には改善の余地がきわめて大きい、ということになる。

大学を出たら毎日上司にやることを指示されるような従来型の仕事に就こうなどと考えていると、いつの間にか機械との競争に巻き込まれていることに気づくだろう。

上司のことこまかな指示に忠実に従うことにかけては、機械のほうがはるかに得意であることを、ゆめ忘れてはいけない。


なぜ日本人は世界で通用しないのか
日本の入試は中学から大学まで、答えは1つであるという前提でつくられています。
それに合わせて学校でも、答えがある問題を出して、その解き方を教えています。

そういった教育を通して「答えは1つ」と植えつけられているから、答えが出ない現実の問題に対応できない面があるのではないかと。

フランスの高校卒業試験であるバカロレアでは去年、「あなたは自由と平等、どちらが大切だと思いますか」という問題が出ました。
これはどちらを選んでもよくて、なぜ自分はそう考えたのかを論理的に説明することが求められるわけです。

日本人とフランス人のハーフの友人がフランスに転校になり、日本で解いたことのある問題がテストで出たそうです。
彼女は日本で習った通りの答えを書いたのですが、結果は0点。

彼女の母親が「うちの娘は正しいことを書いている」と抗議にいくと、先生は

「この解答には彼女の考え方がまったく入っていない」
「これでは世界に対する彼女の付加価値がゼロだ」

と説明しました。

残念ながら日本の場合は、先生が1番偉くて、生徒は知識を一方的に与えられる人になっています。
先進国に追いつく過程においてはそうした教育も効果的でしたが、日本は1990年代前半にアメリカに追いついてしまった。

知識を与えられるだけの教育では、その瞬間に、誰も絵を描けなくなってしまう。
それが「失われた20年間」につながったのかなと。

背景には1人だけ違う意見を持つことを許さない日本の企業文化があると思います。
上の意見に逆らうことができない状態じゃいい発想も出てこないし、仕事へのモチベーションも上がらないでしょう。

アメリカでは、自分の考え方と合わないと思えば転職します。
日本のように我慢しない。
ということは、日本では多くの人が自分の考えを諦めているわけです。

採用にも問題があると思います。
企業は、上の意見に服従してくれる人のほうが都合がいい。

だから「答えはいくつもある」なんて難しいことを言う人より、自分たちのカルチャーに染められるように、「とにかく頑張ります」と言う人を積極的に採ってきました。

小中学校のときから「答えはいくつもある」という教育をしていって、彼らが社会に出たときに化学反応が起きれば、新しい日本というものが見えてくるはずです。

日本はベースの教育はいいのだから、うまく組み合わせれば、ふたたび世界に羽ばたけるのではないかと思います。


日本と中国の「詰め込み教育」と平均点
中国(韓国もそうですが)の詰め込み教育はかなり徹底しており、教育現場を見ると一目でわかりますが、ひたすら暗記重視の教育がおこなわれています。
中国の場合、大学の授業も基本的に教師の話を聞いて、それを覚えるということの繰り返しです。

一党独裁が大原則で、言論の自由がなく、それに対する反対は認められていない中国では、社会科学の分野では、有る程度答えが最初から決まっているからです。

それ以外の「正解」が存在しないため、その「正解」を覚えることが要求されるというわけです。


自主的な気持ちが抑圧されていくパターン
「上司が替わるごとに規則が微妙に変わる」
「それまではよかったことがダメになる」

こういう状態が続くと、上司の顔色をうかがいながら、生活しなければならなくなります。
自主的な気持ちが抑圧されていくパターンにはまっていくのです。
上の者に逆らわず、言われたことに従わなければならない。

刑務官の言われたことにそのまま従わないと懲罰になってしまう。
自分を殺して刑務官に従っていくことが賢いやり方になるわけです。

上司から言われたことを上意下達して、刑務作業をさせるのが仕事になってしまっている。
つまり、言われたことにそのまま従って評価して、それが更生だという考え方になっているんですよね。

「自分がなぜ犯罪を犯したのか」
「自分のどこに問題があったか」

に、いつまでも向き合えない。

その点において、「更生する場」にはなっていないというのが、実態だと僕は考えています。


日本の学校掃除は教育か、それとも児童労働か
日本の小学生が、学校で掃除(及び給食の配膳)を行っている動画が話題を呼んでいる。

日本においては一見日常的な風景であるが、欧米諸国の学校では生徒に掃除をさせる習慣はほとんどなく、雇った清掃員に全ての掃除を任せている。
それゆえ、多くの反響を呼んだのである。

主に以下のような反応に分類される。
素晴らしい取り組みと賞賛する人、児童労働・虐待になりかねないと懸念する人、学校は掃除よりも勉強の場所であると主張する人、である。

児童労働・虐待ではないかと懸念する人に関しては、学校が生徒に掃除をさせることで清掃員雇用のコストカットをしようとしていると誤解していることが多い。

日本の小学校の掃除に関する取り組みを賞賛する人たちは主に、ものを大切に扱い敬意を払うこと、自分の始末は自分でつけることを子供に覚えさせる機会として賞賛していた。

中には、家事を覚える良い機会だと捉える人もいたが、これは家で教えるべきことだという反対の意見もあった。

効果に対して懐疑的な意見もあった。
掃除教育は「立つ鳥跡を濁さず」のことわざが表すような日本の精神性を体現している習慣の一つに過ぎず、掃除教育だけではいわゆる日本的精神性の良い面もすぐには身につかないのかもしれない。

日本的精神性の悪い面と関連づけて掃除教育を批判する人もいる。
「掃除教育が教えようとしているエッセンスを否定するわけではないが、行き過ぎた責任感や義務感の教育はよくない」など、加減に対する指摘も見受けられた。

日本の掃除教育に関する動画及び関連記事からは様々な反応が伺える。
同時に、動画はシンプルなメッセージを発信する手段として便利だが、細かな部分の理解を促すには向かず、誤解も生み易いように感じられる。

動画ニュースを見てメッセージを受け取るだけでなく、動画をきっかけにトピックを深掘りした上で多様な考えや視点を知ることも大切ではなかろうか。


「日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?」
日本の学校では、5科目中心の「普通教育」が行われ、大学でもあまり仕事に役立つことは教えない。
だから、大学の科目と就職後の仕事の中身がリンクするケースも少ない。

つまり、「企業でいちから技能形成する」方式である。

その分、仕事の内容について、「自分の仕事はこれだ」と労働者の側が口をはさむ余地はまったくない。
人事部が勝手に「適性」を判断して配属を決める。

逆に欧州では、労働者は学校や国の支援で技能を身につけてから入社する。
その分、「自分の仕事はこれだ」と主張することが可能になっている。

また、会社が新しい業務に挑戦しようとするとき、どうやってその業務を担う労働者を獲得するのか。
ひとつは、会社のなかで育成する方法であるが、もうひとつは、会社の外から「できる人材」を獲得する方法である。

会社の外から獲得する場合には、会社の外に人材を育成する仕組みが整っていないと、「人材不足」になってしまう。

「仕事を遂行する能力を持った労働者」を獲得するためには、社会的な「仕組み」が必要になるのだ。


「この世でいちばん大事な「カネ」の話」
世の中の多くの人は、カネのハナシをしない。
特に大人は子どもに「お金の話をするのははしたない、下品なことだ」と言って聞かせたりするよね。

「カネについて口にするのははしたない」という教えも、ある意味、「金銭教育」だと思う。
でも、子どもが小さいときからそういった「教え」を刷り込むことで、得する誰かがいるんだろうか?

いる、とわたしは思う。

「働き者で欲がなく、文句を言わない」というのがまるで日本人の美徳のひとつみたいに言われてきたけど、それって働かせる側にしたら、使い勝手がいい最高の「働き手」じゃないかな。

そういう人間が育つように戦後の学校教育ってあったって思うし、そういう人間を使うことで日本の経済成長もあったと思うけど、もう、単純な経済成長なんか見込めないような今の時代に、そんな金銭教育のままでいいんだろうか。

カネのハナシは下品だという「教え」が生んだもので「ちょっと待て、いい加減にしろ!」って言いたくなることは、まだある。
「人間はお金がすべてじゃない」「しあわせは、お金なんかでは買えないんだ」っていう、アレ。

そう言う人は、いったい何を根拠にして、そう言い切れるんだろう?

日本中が貧しかった時代には、どん底から死に物狂いで生き抜こうとした人たちはいっぱいいた。
今だって、そういう境遇に生まれて、そこからはいあがってきた人には、それぞれに血のにじむような思いでつかんだ「経験則」ってものがある。

そういう人には上っ面なきれいごとは、まず通用しないようね。

それを「お金じゃない、人の心の豊かさ」なんて言い切ってしまうことが、どれだけ傲慢なことか。
「いかにも正しそうなこと」の刷り込みが、どれだけ事実に対して人の目をつぶらせ、人を無知にさせるのか。

自分とちがう境遇の人の立場や気持ちを想像することができない、想像力の欠如っていうのも、「人を人でなくしてしまうもの」のひとつかもしれないね。
そして、それは「カネ」が生み出す格差の中にも潜んでいるものだと思う。

もちろん、自分とはまったくちがう環境や感覚に対して、人って、最初っからそんな豊かな想像力は持てないものだよね。

金銭感覚は、特にそう。
一度身につくと、なかなか変わらないし、変えられない。

世の中には学校に行っているだけ、机に向かっているだけじゃわからないことが、それこそ山のようにある。

それなのに「自分にはわからないこと、知らないことが山のようにある」ってことさえ、子どもにとっては、なかなか気づけないような時代になっているんじゃないか。

だって今の時代って、ネットでもあふれんばかりに「情報」があるしね。
ひとつところでじっとしているだけで、いっぱしに何かを知って、何かを経験したような気にだって、簡単になれてしまう。

でも実際に自分の手と足を動かしてごらんよ。
頭の中で考えていたのとは、きっと、ぜんぜんちがうはずだから。

今がつらいと、すぐ「サイアクだ」って思うだろうけど、最初っから嬉しいことばかりの人って、すごく退屈してつまらなそうにしていたりするでしょ。
うれしいことばかりだと、うれしいことの中に、もう、不満の種を探すからね。

雑誌の情報に踊らされて、服はこのブランドじゃなきゃイヤ、恋人もこのくらい収入がなくちゃイヤ、マニュアル通りの条件が全部揃わないと、しあわせになれないと思っているとしたら、それはもう、すっかり退屈してるってことだよ。

それに、すっかり大人になってから「マイナス」を知ると、何の免疫もないから、ちょっとしたことでも打ちのめされて、なかなか立ち直れなかったりするんだよ。

日本では年間で3万人もの人が自殺しているという。
この数字は先進国の中でも異様な数なんだって。

日本の交通事故死者数が年間で5千人というから、その6倍もの人が自殺を選んでいる。
それを思うと、銃声の音は聞こえないけど、「日本にもかたちのちがう戦場があるのかもしれない」って思う。

だって3万人って言ったら、ひとつの市や町の人口に匹敵するくらいの数だよ。
市や町がまるごと消滅したくらいの人が毎年毎年、みずから亡くなっている。

人が自分で死を選ぶ理由。
それは、本当は亡くなった人の数だけあるんだろうけど、大きな傾向というものはある。

わたしのお父さんのように「借金」を自分で清算するような「死」もあれば、自分の仕事をまっとうするために我慢に我慢を重ねた上で選ぶ「死」もある。

それも働き盛りといわれる30代、40代で死んでしまう。
その仕事をするためにしなければならなかった我慢、人としての限界をどうしようもなく超えてしまったための「死」。

そういう「死」が待っている戦場に、自分の子どもを送り込みたくなんかない。
母親のわたしは、強くそう思う。


「逃げる中高年、欲望のない若者たち」
社会の構造が高度成長期のままなので、若者たちは、どう生きればいいのかという基本的なことさえ、誰からも教えられることなく成長する。

英語ができれば何とかなるかもしTOEICを受け、必死で資格を取ろうとして、営業職などでは外見も大事だと聞くと日焼けサロンに通ったり整形したりする。

高卒では就職がむずかしいからというだけの理由で大学に行って、結局どうしようもない大学で何をどう勉強すればいいかわからず、卒業後は非正規社員になって派遣切りに遭ったりする。

若者たちは、一人で生きていくための訓練をまったく受けないままどんどん歳だけ取っていく。

勘違いしないで欲しいが、一人で生きていくための訓練というのは、サバイバルゲームをしたり、カヌーでアマゾンを下ったり、日本を自転車で横断することではない。
一人で生きていくために必要な技術と知識とネットワークを手に入れるということだ。

現代の若者が昔に比べて怠け者になったとか根性がないとか我慢を知らないといった批判は間違っている。
雇用、つまり仕事・職業に就くことは、生活の糧を稼ぎ出し、友人や仲間の人的ネットワークを形づくることができて、かつ社会とつながり、充足感や連帯意識を得る。

つまり雇用は、ひょっとしたらもっとも重要なイシューであるはずだが、どういうわけかそういった捉え方は、日本では少ない。
日本では、派遣村や内定取り消しや就職難が小さなニュースとして取り上げられるだけで、地方や国全体を揺るがす大問題とはならない。

日本の若者は、大人になって一人で生きていくための実務的な職業訓練をほとんど受けることなく成長し、ふいに社会に放り出される。

議論されるのは、学力重視の教育か、それともゆとり教育かというような、どうでもいい話題ばかりだ。
学力重視もゆとり教育も、一人で生きていける大人にするための具体的なカリキュラムがないという点では変わり映えしない。

草食系といわれる若者たちは、自分たちが置かれた状況に怒り、デモをする力もない。
一人で生きていくためには訓練が必要だという自覚はもちろん、そういった概念さえ持てなくて、社会を前にただ立ち尽くしているからだ。

怒っているんだよと誰かに言われなければ怒れないような若者が大量に社会に送り込まれる。
怒らないのは別に若者に限ったことではない。

なぜ人々は怒らずに、単に「切れて」通り魔のような自滅型の犯罪に走ったり、うつ状態となって自殺を考えたりするのだろうか。

経験と訓練がなければ、怒りの感情をアクションに帰ることはできないのではないだろうか。
わたしたちの社会は、正当な怒りを言葉や行動で表現することを、子どもたちや若者に教えていないし、示してもいないということになる。

若いってことはすばらしいねぇ、と、もっと勉強しろ、の2つしか言われてこなかった若者たちは、不幸だ。


「やる気はどこから来るのか ― 意欲の心理学理論」
「がんばればうまくいく。うまくいかないのは、本人がそうしようとしなかったからだ」

この考え方は、じつは1つの前提のうえに成立しています。
それは、自分の行動が望む結果の必要十分条件になっているということです。

がんばれば必ず望む結果が得られるし、努力しなければ絶対に望む結果を得ることはできない。
このような条件が成立している状況を、「行動と結果の随伴性がある」といいます。

もし、行動と結果が随伴していない、つまり自分の行動とまわりのできごとがまったく無関係に起こるとしたらどうでしょう。
まさに「のれんに腕押し」、文字通りやりがいのない状況ということになりますね。

行動と結果が随伴していない環境におかれ続けると、人はもちろん動物でさえ、ついにはやる気を失い、まったく行動しなくなります。
また、不安な気持ちや憂鬱な気分が慢性化し、からだにも変調が現れます。

そしてついには、生きていることさえ無意味に思えてくるのです。

「受験なんておそれることはない。オレが保障してもいい。夏休みに1日10時間勉強してみろ。そうすれば、どこでも希望する学校に合格できる」

先生はみんなを意欲づけようとしたのでしょう。
でも、これを聞いて「そうか、じゃあがんばろう」なんて思う生徒はいません。

さらに重要なことは、ただ語るだけの親や先生と、実際に実行する子どもとの間には、行動コストの主観的な見積もりに、しばしば大きなギャップが生じることです。

親や先生は「お前の一生がかかっているんだ。ここはイッパツ気合いで乗り切れ」などと言いますが、「イッパツの気合い」では、40日間もある夏休みの期間中、10時間の学習を継続するのはほとんど不可能でしょう。
語るほうはそのときだけの「気合い」ですが、実行するほうは毎日のことですからね。

四六時中、「気合い」を入れ続けられるわけがない。
それを「自覚が足りない」とか「根性がない」などとしかりつけるのは、酷というものです。


「リフレクティブ・マネジャー」
「社員教育とはこういうものだ」
「よい教え役はこうやって教えるものだ」
「仕事っていうのは、こうしておぼえるものだ」

等々。
巷には「私の教育論」が満ちあふれている。

だが、「私の教育論」には弊害もある。

持ち主がそれを「万能」であると思い込んでしまったとき、どんな職場の「どんな人にも適用可能」と思い込んでしまったとき、あるいは他者からの異議申し立てや時代の変化によって変更を迫られているにもかかわらず、本人がそれに気づかないとき、「私の教育論」は閉じたものになる。

皮肉なことに、「私の教育論」は、「私」を超えたがる。
「私」の中にとどまろうとしない。
言うまでもなく、企業人材育成において、教育を提供する主体は「企業」であって「私」ではない。

研修の締めくくりに「正しい答え」が必ず述べられるのも、問題だと思う。


1. 「思考停止」に陥り、自ら考えることをやめてしまう
「正しい答え」をもらった受講者たちは、満足はするかもしれないけど、そこで「思考停止」に陥り、自ら考えることをやめてしまう。
つまり、「正しい答え」をもらっていても、それを実践に移し、行動を変容させることは少ない。
つまり、結局、何も変わらないことが多いのではないだろうか。


2. すべての現場に適用できる「正しい答え」は存在するのか?
およそ企業活動に関することで、すべての現場に適用できる「正しい答え」が存在すると考えることにそもそも疑問がある。

たとえばマネージャー向けの研修ならどうだろう。
すべての現場に適用できるような万能のルールや仕組みを教えるのは可能なのだろうか。

研修で何を教えるにせよ、結局は一人ひとりのマネージャーが「自分の現場の状況」に合わせて「自分の頭」でソリューションを考えるほかないのではないだろうか。
だとしたら、研修で提供するべきは、一人ひとりのマネージャーが考えるための素材と、他者に開かれた内省の場ではないのだろうか。

大事なことは、教育とはこういうものだという教育観、学びとはこういうものだという学習観を、つくりつつ壊すことであり、確信しつつ疑うことではないだろうか。

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えーと・・・

「教育」と聞くと、皆さまはどんな言葉を思い浮かべますか?

「人材教育」「従業員教育」「社員教育」「新人教育」「学校教育」「義務教育」「社会人教育」
「マナー教育」「営業マン教育」「管理者教育」「外国語教育」「ゆとり教育」「通信教育」
「キャリア教育」「職業教育」「人間教育」「教育テレビ」「教育ママ」「シュタイナー教育」・・・

などなど・・・

仕事によっても立場によっても、状況によっても人によっても、思い浮かぶ言葉はいろいろとあると思いますが・・・

ご自分が受けられたその時の「教育」を思い出してみると、皆さまはどんな様子を思い浮かべますか?
上記の「教育とは?」に記載した、特に下線の部分に関しては、どーでしょう?

上記の他、研修やセミナーなどの類も「教育」に含めたとしたらどーでしょう?
書籍や新聞、インターネットでの様々な情報、人間関係などなども「教育」に含めたとしたらどーでしょうか?

また・・・

自律型人材育成(自律型人財育成)という点においては、どーでしょう?
皆さまがご存知の「教育」と「共育」を比較してみると、気づくことは何かありませんか?


あ・・・

誤解のないように、念のため申し上げておきますが・・・

「教育」と「共育」、どっちの方が良いか悪いか、
優れているか劣っているかという話ではない


ので・・・。

・・・え?

「・・・へっ!?それって、どーゆー意味さ??? ( ̄д ̄;) 」

・・・って?

んーと・・・、じゃあ・・・

例えば、こんなのから考えてみるのはどーでしょう? (^^)/

「手っ取り早い解決策やテクニックに頼る理由とは?教育(共育)との関係って?」シリーズ
対症療法とは?会社の現状そのものに対処しようとすると何が起こるんだろう?
「おすすめの方法やいい方法、手法に頼ったり探したりする理由って何だろう?」シリーズ
「普通とは?一般的とは?当たり前とは?誰がどんな基準で決めるんだろう?」シリーズ
誰にも相談しない、相談したくない、相談できない理由って何だろうか?
質問しない、質問したくない、質問できない原因って何だろう?
「研修とは?本当に役立つ社員研修や管理職研修を行うのに必要なことって何?」シリーズ
「知識や方法論中心の研修で育つ力、育たない力って何だろう?」シリーズ
思考停止を招く教育とは?従業員の主体性や向上心が育つ人材育成って?
「丸投げとは?丸投げした結果、失うものや得られるものって何だろう?」シリーズ
マニュアル人間、主体性がない、指示待ち人間になる理由って何だろう?
指示通りに行動しない、細かく指示しないと行動できない理由って何だろう?
部下思いのいい上司が、パワハラ上司に変わってしまった原因って何だろう?
「上司や部下がうつ病になる組織、ならない組織の違いって何だろう?」シリーズ
病気でも出勤するのが常識、病気で休みたくても休めない原因って何だろう?
困り事や悩みなどを相談しやすい組織と相談しにくい組織って何が違うんだろう?

ううーむ・・・、こーやって考えてみると・・・

まだ見えていないだけで・・・

遠くて近いところに、
意外なヒントがいっぱい溢れている
おお〜っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ〜♪


のかも〜???

なーんて、感じません? (〃▽〃)

どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?


と言う訳で、「教育(共育)から、自律的に考えて行動してみる」カテゴリとしては、


人材育成や教育を「自分ができる事」と「教えられる事」から考えてみると?


へ、続きまーす。(^^)/

ちょっと興味あるかも〜?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)





★★★ ネクストストラテジーは、三方よしの場づくり黒子サポーターです ★★★
「ヒト(組織)」「情報(IT)」を中心に、「三方よし経営」のお手伝いを行っております。(^^)/
「自律型人材育成」「自律型の組織変革」などのご相談、
首を長ぁーくして、お待ちして申し上げております。 m(_ _)m



【追伸】
「・・・で、答えは何なの???」と思った方へ


よろしければ、以下の記事も見てやっていただけると嬉しいです。(^^)

「自分で考えて行動する「自律型人材」が育つ組織って?」ブログについて
「答えが見つからない、探しても解決策が見つからない原因って何だろう?」シリーズ
「自分で考える」と「独りで考える」って同じ?教育(共育)などとの関係って?
「自立」とは?「自律」とは?その違いって?自律型人材とは?
「社長、上司、部下、会社組織にとって本当に必要な支援って何だろう?」シリーズ




posted by ネクストストラテジー at 07:05| Comment(0) | 教育(共育)から考えて行動してみる | 更新情報をチェックする
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