「やる気も出さないし努力もしないし、全然できるようになってくれないんだよなー、そんなヤツは無能扱いされても自業自得だよねー ( ̄д ̄;) 」
「わからなかったら聞けって言ってるのに、質問もしないし相談もしないような部下が失敗したって、そんなの自己責任でしょー! ( ̄ヘ ̄)凸 」
「ミスしないように気をつけろって何度も何度も言ってるのに、間違ってばかりいるんだもんなー、自分で考えて行動しないんだから自業自得だよー ( ̄○ ̄;) 」
「うつ病になったのは上司のせい?社長が悪い?そんなの自己責任じゃね? ( ̄。 ̄) 」
「パワハラやらかした上司が解雇されるのは自業自得だよねー、無能上司がクビになるのも自業自得だよねー、いい気味だよーw ( ゜∀゜)アハハ八八 」
「売上が上がらないとか利益が出ないとかって言ってるウチの社長ってホント無能だよねー、経営者としての自助努力が全然足りないよね〜 (# ̄3 ̄) 」
「下請け企業が悪いんだよねー、ウチに甘えてばっかで自助努力が足りないよねー、ウチとの取引がなくなったぐらいで潰れるようじゃー自業自得だよね〜 ( ̄▽ ̄゛) 」
「仕事が見つからない?就職できない?正社員になれない?そんなの自助努力が足りないからじゃん!努力しないヤツが悪いんだよねー、自業自得だよねー q( ̄3 ̄)p 」
「不安定な非正規で仕事してるのに、貯金すらしてないなんてビックリだねー、そんなヤツはリストラされても仕方ないよねー、のたれ死んでも自業自得だよねー ( ̄▽+ ̄*) 」
などなど・・・
「自分で考えて行動する「自律型人材(自律型人財)」が育つ組織って?」ボログをカキカキしているせいなのか・・・
「三方よしの経営相談」や、「自律型人材育成」、「組織力の強化や向上」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」のお手伝いを行なっているせいか・・・
特に、「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行っていると・・・
このような声をお聞きすることもあるんですが・・・
(;´・ω・`)
コレって、もしかしたら・・・
■ 「借金返すか自殺するかなど両極端な思考に走る前にできることって何だろう?」シリーズ
■ 社長が従業員に相談しない、相談したくない、相談できない理由って何だろう?
■ 「経営者の視点を従業員にも持って欲しいと社長が思う理由って何だろう?」シリーズ
■ 中小企業の従業員が知っておきたい経営者が孤独を感じる原因って何だろう?
■ 社長がいつも強気でパワフルで元気で前向きで楽観的に見える理由って何だろう?
■ 「社長が暴走してしまう原因、暴君社長と感じてしまう理由って何だろう?」シリーズ
■ 「丸投げとは?丸投げした結果、失うものや得られるものって何だろう?」シリーズ
■ 下請いじめが起きる、なくならない原因って何だろう?下請法とは?
■ 「会社にとって法律って何?何のための法律?自己責任との関係って?」シリーズ
■ 「属人化とは?属人化する原因って?メリットやデメリットって何だろう?」シリーズ
■ 「優秀な人材が辞める本当の理由、優秀な社員から辞める原因って何だろう?」シリーズ
■ 「組織じゃないとできないこと、組織でなくてもできることって何だろう?」シリーズ
などなどにも、ある意味関係するっちゃーするのかも〜???
(( ̄_ ̄*)(* ̄_ ̄)) ンーン
なーんて感じたので・・・
そもそもの話・・・
責任って、いったい何だろーか?
自己責任って、いったい何だろーか?
自助努力って、いったい何だろーか?
自業自得って、いったい何だろーか?
何のために、自己責任、自助努力、自業自得などの言葉があるんだろーか?
誰のために、自己責任、自助努力、自業自得などの言葉があるんだろーか?
などなどについて・・・
一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも〜?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/
んーと・・・
例えば、こんなのから考えてみるのはどーでしょう?
■ 自己責任とは?
○ コトバンク
1. 自分の行動の責任は自分にあること。
2. 自己の過失についてのみ責任を負うこと。
○ はてなキーワード
自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないという大人の掟。
自己や組織などが自らおこなった行為に対して負うべき社会的な(つまり、対外的な)責任。
自分の責任をとらずに他人になすりつけて逃げる口実。
マスコミ等が自己責任という用語を用い、損失(害)の最終的帰属先の「責任」を表現することがあります。
それは多分に、弱者に被害がしわ寄せされることを揶揄し、比喩的に表現したものでしょうが、誤用と云わなければなりません。
自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはない、と言うことです。
従って他に、責任を負う者が居るのに、事実上全責任を負うことを強いられている者の「責任」を意味するものではありません。
○ ニコニコ大百科
抑も自己責任は、自己、自分自身の行動により発生する影響は、自分がとらなければならないという考え方であり、他人はその内容に関し一切関わらないという主張を指す。
自己責任という語感だけ捉えて都合よく適当に使いまわされた為、現在では、他者に影響しない行動であることをアピールし自分への影響を拒否する場合や、連帯責任者が決まっていない連帯責任行動を行う事を、形式上注意しておく場合等に用いられる。
昨今では、イラクへのボランティア活動について、自己責任で行うよう、国から注意が行われたのが有名。
ちなみに海外渡航は法で禁止出来ないため自粛要請以上は行えない事になっている
(つまり、事実上の渡航禁止)
なお、この時、あっさり現地の武装組織につかまった人々は連帯責任者がおらず、日本国が連帯責任者として責任を取った。
そのうち一人が朝日新聞の入館証を持っていたのだが、そのとき朝日新聞は 『契約カメラマンなので、危険地帯に侵入するのは自己責任』と発言。
この事が、彼らに対して自己責任を求める声が高まった理由である。
○ Weblio辞書
フランチャイズ契約を締結するに当って、加盟店に要求される事業主としての自覚と責任。
フランチャイズ契約は、本部と加盟店の両事業主同士の対等の契約行為とされる。
一般的には、本部は加盟店に比べ、経営資源、情報、資金力等に於いて強い立場にあるといっても、契約は対等であるという意味で、加盟店は情報収集に努め、自ら事業経営能力を高める自助努力が要求される。
開業後のフランチャイズ本部の不法行為に対して、加盟店が訴訟を起こして勝訴したとしても、ケースによっては加盟店の自己責任能力を問われ過失相殺が行われる場合がある。
一方、これをより対等にするためにフランチャイズ本部側にも契約に当っては保護義務が課せられている。
■ 責任とは?
○ はてなキーワード
立場、行動が及ぼす影響に対し、適切な対応が取れること。
もっぱらマイナス面での影響がある、あるいはあったと仮定される際に、その損失を自分が及ぼしたものと外的に判断され、反応を要求されることが多い。
○ ウィキペディア
近・現代に用いられている責任(英:responsibilityという用語・概念は、元をたどればラテン語のrespondereレスポンデレ(答える、返答・応答する、英語ならばrespond)に由来しており、-ityの形では、何かに対して応答すること、応答できる状態、を意味している。
respondereという語自体は古代ローマ時代には、法廷において自分の行為について説明したり弁明したりすることを意味していた。
責任とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。
責任とは、社会的に見て自由があることに伴って発生する概念である。
自由な行為・選択があることに伴い、それに応じた責任が発生する。
責任の概念は、他のことを意志できること、少なくとも意志したとおりの行為を為すことができるという意味での自由意志の概念を前提としている。
そのため、責任という概念は、伝統的に自由意志の概念とも結び付けられてきた。
現代の社会において、ひとりひとりの人間は、何らかの自由を行使し行為を選択する際には、その自由に応じた責任があると認識・自覚する必要がある。
■ 無責任とは?
○ コトバンク
1. 責任がないこと。
2. 責任を自覚しないこと。責任感がないこと。また、そのさま。
■ 責任転嫁とは?
○ はてなキーワード
自己に多くの責任があるりもかかわらず、その責任を認めず、外部にその責任があると主張すること。
人のせいにすること。責任のなすりつけ。
■ 責務とは?
○ Weblio辞書
自分の責任として果たさねばならない事柄。
つとめ。
■ 責任感とは?
○ コトバンク
自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち。
○ Weblio辞書
責任を重んずる気持ち。
■ 自助努力とは?
○ コトバンク
他に依存せず,自分の力で困難を乗り越える努力。
○ Weblio辞書
自分で努力に励み、困難の解決や成長を独力で進めていくこと。
他社依存や他力本願に相対する意味合い。
■ 他力本願とは?
○ goo辞書
自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすること。
○ Yahoo!Japan辞書
1. 《他力(阿弥陀仏)の本願の意》
仏語。自らの修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀仏の本願によって救済されること。
浄土教の言葉。
2. 《誤用が定着したものか》
俗に、自分の努力でするのではなく、他人がしてくれることに期待をかけること。
人まかせ。
■ 自業自得とは?
○ はてなキーワード
すべての不結果は、以前に自分が行った良くない行為の報いに基づくとする考え方。
○ goo辞書
自分の行いの報いを自分が受けること。
一般には悪い報いを受ける場合に用いる。
もとは仏教の語で、自分のした善悪の行為で、みずから苦楽の結果を招き受けること。
○ ニコニコ大百科
仏教用語の自業自得の意味は「自らなした業の報いは自分で受けなければならない」というものである。
ちなみに、自業自得の「得」は「得をする」という意味ではなく「(報い)を得る」という意味である。
「自己責任」、「藪を突いて蛇を出す」、「ミイラ取りがミイラになる」などがイメージとして湧きやすい。
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で・・・
次に、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?
■ 「医療事故 ― なぜ起こるのか、どうすれば防げるのか」
事故は個人が起こすものではなく、組織の中で起こるものですから、個人に責任を押しつけて処分し、それで片付けてしまうやり方では、事故を起こしやすい組織の体質はそのまま残ってしまいます。
一方、自分の責任を認め、事故の経過や状況を正直に明らかにしたばかりに、それが証拠となって処分が重くなるということになれば、その後は「事故を否定する」「不都合な点はできるだけ隠す」ようになってしまいがちになるのは、人間の心理の面から明らかです。
同様に、組織についても、事故後に組織が自発的に事故調査をし、自らの組織の問題点を明らかにして発表することによって、かえって重い処分を受けるということになれば、以後、「できるだけ隠す方が得」となってしまいます。
それでは「事故から学ぶ」ことができなくなり、安全な組織に改善するチャンスを逃すことになるでしょう。
■ 「(日本人)」
日本では、いったん「責任」を負わされ、スケープゴートにされたときの損害があまりにも大きいので、責任を逃れようとする。
その結果、権限と責任が分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからなくなる。
呪術的な無限責任の国では、自己責任は「ルールのないまま一方的に責任だけを押しつけられる」ことと同じだ。
これでは、人々が自己責任論を忌避するようになるのも当たり前だ。
だが、責任をとれない社会には致命的な弱点がある。
組織のなかに統治(ガバナンス)の構造をつくることができないのだ。
日本の組織では権限と責任は分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからない。
一歩間違えれば無限責任を追及される閉鎖的なムラ社会では当然の自己防衛策でもある。
誰もが責任をとりたくない社会では、全員の総意で、誰も責任をとらなくてもいい組織ができあがるのだ。
このような組織は、「責任」を免れることができない重大なトラブルが起こると機能を停止してしまう。
トラブルを表に出せば”無限の”責任をとらなくてはならないのだから、残る選択肢はトラブルを隠蔽し、外部には知られないように隠密裏に処理することだけだ。
■ 「「一体感」が会社を潰す」
権限のある人が、その権限を使ってビジネスを行い、成果をあげれば報酬を受け取り、失敗すれば責任を問われるというのが正論です。
ところが、この正論が通用しないのが日本の組織です。
権限は与えられず、責任だけとらされる組織にいるメリットはゼロです。
権限と責任が不釣合いな組織では、誰もリスクをとりたがりません。
誰もリスクをとりたがらないのですから、当然、リターンもない、じり貧の組織になります。
「挑戦しよう」「新しいことにチャレンジしよう」といくら掛け声をかけたとしても、思ったとおり自由にやらせてもらえず、失敗したら責任をとらされることがわかっているのですから、誰もそんな挑戦などしません。
■ 「生活保護リアル」
今日では、失敗すること、敗北することは、自己責任で招いた結果とみなされる。
特に貧困状態に陥ってしまったら、誰に言われなくても「自分の能力のなさが招いた結果」と考えて自責しがちだ。
「能力主義」「自己責任」「自己選択」・・・
どれも、資本主義社会のもとでは、当然であり、好ましいものとみなされている。
「頑張ればなんとかなる」という文化。
裏返せば「なんとからないのは、頑張らなかったからだ」という文化だ。
そして、精神的にも経済的にも追い詰められた人々が、精神を病み、精神科へと流れ込む。
人間と人間との関係は、なんらかの形で「助け合う」ことで成り立っている。
そのように考えることができたら、世界はどれほど豊かに感じられるだろうか?
■ 何が餓死した31歳女性の生活保護を遠ざけたのか
日本人って、誰かから相談をされたり、誰かの困りごとが自分に寄りかかってきたりすると、家族でも『迷惑をかけるな』っていう風潮がありますよね。
「迷惑」という言葉のもつ響きには、日本独特の文化や美徳に根ざした意識が影響しているのだろう。
しかし、そのことがかえって、コミュニケーションの大きな阻害要因になっている。
何か世間の常識とか漠然とした社会の正しさを疑わせる“迷い惑わし” に対して、いまの日本人は、異様な被害者意識を持ち過ぎだと思います。
“迷惑かけるな。自己責任だ”みたいな、寛容のなさがあるように思います。
家族でも学校でも社会でも、言いたい事が言えない。
人と違ったことや、ネガティブなことを言うと、すぐに否定され、排除される雰囲気がある。
力のある人に都合がいい、弱い人には厳しい社会。
確かに日本では、自分が傷つけられた当事者の立場であったとしても、つらかった体験や困っていること、悩んでいることなど、そのままの思いを口にしようするだけで、周囲から「迷惑をかけるから」という口実のもと、言葉を封じ込められる風潮がある。
こうして当事者が声を上げられないまま、その場を「なかったことにされる」ことによって、解決されない事態は長期化、複雑化し、そのことが結果的に当事者や社会を不幸なものにしているのではないだろうか。
傷つけられ、封じ込められて、声を発することのできなくなった当事者たちは、世の中の空気に敏感だ。
一旦、失われた言葉を再びどうやって紡ぎ出し、弱き者の声が届く社会の仕組みをどのように構築していけばいいのか、いま改めて私たちは問われている。
■ 「自己責任だ」と説教しても、問題は解決しない
やっぱり、相談されると立場が上になってしまいますよね。
会社やめても「なんでやめたの」「我慢できなかったの?」「そんな上司文句言えばいいじゃん」とか。
でもそれは上からの指導なんですよね。
それって対等じゃない。
何かの理由があって、仕事が出来ないから困窮している。
それなのに出来ないことだけを見て責めても問題は解決しません。
みんなに責められている人をこれ以上、責めても仕方ない。
結果をみて判断して説教するのは簡単です。
なぜそうなったのか。
過程を丁寧にみていかないといけない。
説教をして自己満足しても、その人の問題解決につながらない。
自業自得じゃない要素を持っていない人って少ないと思うんですよ。
誰だって、「もっと勉強していればよかった」とか「あの時、就活頑張っていたらもっといい企業に入れたかも」「あの人と結婚しておけば......」って人生の選択に失敗はつきものです。
助けを求める人に対しては、粗さがしをしてしまう。
でも、そうやって粗さがしをすることで、自分は不正をただした気持ちになるかもしれないけれど、問題は解決しないんですよね。
「自己責任」って言うのは、最強の言い訳ワードなんです。
その一言で見ないようにできる。
自己責任って言いだしはじめたら、誰も反論できません。
「自己責任」と言われて言い返せる人なんてほとんどいません。
自分自身の生活が100%高潔な人はいないと思うので。
■ 会社を辞めたくても辞められない…退職妨害、なぜ増加?転職妨害、脅迫行為…
創業者は24時間365日働いてきたので、社員に対しても「俺みたいに働け」と労働基準法を無視して仕事を強要しがちです。
理念や口上をセミナーなどを通じて社員に浸透させ、会社に順応しやすい人間にしてしまうのです。
そうなると、社員には辞めたいという思いがあっても、なかなか口に出せなくなってしまいます。
「社長に叱られる自分が悪い」
「ノルマを果たせない自分が悪い」
という過度な自己責任意識が生じてしまうからです。
そういう企業で社員が「辞めたい」と口にすると、経営者は怒りだします。
社員は自分の分身だと思っているので、「俺を裏切るのか」「俺に足向けするのか」という心境になって、異常に怒りだすのです。
上司は、部下に辞められると自分の責任になると思っていたり、自分の評価が下がると思っていたりして、必要以上に部下をとどまらせています。
社員を使い捨てにする企業でも、理不尽に辞めさせない企業でも、経営者や上司の心理状態は同じです。
どちらも社員を使い潰しているのです。
辞めさせない企業も、ブラック企業であることには変わりありません。
■ 会社で働く人間にとって、“責任感”とは何だろうか
「日本的経営の編成原理」
「社会に対する責任よりも、自己の所属する集団に対する責任が強く意識されるという事実、また、より大きな上位集団に対してよりも、身辺の下位集団に対して責任が意識されるという事実がある」
「行為そのものは何ら集団に対する“裏切り”を含まない行為であっても、たまたまそれが、集団にとって“迷惑”な結果をもたらしたといった場合にも、ある種の責任問題が生ずる。(中略)“世間”に対して集団が苦しい立場に立たされることとなった場合などには、その行為者に対して、責任の追求が行われる」
私の解釈だが、日本人は市民社会の価値、例えば、法律や社会常識を守るといったことよりも、組織の言わばおきてのようなものを優先させる傾向があるということだろう。
■ 「マジメすぎて、苦しい人たち」
日本人には、「努力すればものごとは改善する、解決する」と思い込んでいる人がたくさんいます。
たしかに努力も大事ですが、努力だけですべてが解決すると思い込む「努力信者」になってしまうのは問題です。
「自分が努力さえすれば何でもできる」という考えは、裏を返せば悪いことが起こったとき、「責任はすべて自分にある」ということになります。
「努力も大事だが、運や出会いといった不確定要素の存在もある」
と思ったほうがもっと楽観的に生きられます。
■ 狭く深くの日本人、浅く広くのイラン人
日本では「話し手」がより多くの責任を負います。
これに対して、イランでは「聞き手」の側が責任を負います。
たった1回しか来日したことのないイラン人でも、「日本人は保守的である」と言うかもしれません。
政治的な言論が自由である一方で、社会的な言論の自由が限れているように見えるからです。
一方、イランは政治的な言論の自由には欠けていますが、日常生活では批判することにタブーはありません。
職場でも学校でも自分の意見を自由に発言する。
年上の人を尊敬する文化はありますが、自分が正しいと思うことはあくまでも主張します。
日本のような先輩後輩関係は、軍隊の中にしか存在しません。
軍隊の中でも、日本ほどに強くはありません。
では、他人の意見を自由に批判したり、自分の意見を強く主張したりすることに、社会的なメリットはあるのでしょうか。
答えは、ノーです。
協力して仕事を進めるポジションに配属されたパートナーを信頼・尊敬しない限り、仕事を進めることはできません。
組織も形骸化してしまいます。
一方、日本式のやり方にも問題があります。
批判が許されなければ、組織が活性化するわけがありません。
イランと日本の中間が望ましいのかもしれません。
■ 自己主張におけるドイツ人と日本人
日本人の間ではドイツ人は自己主張が強いと思われている。
日本人はどういった場面でドイツ人は自己主張が激しいと思うのか。
例えば職場のドイツ人による
「私の仕事は此処まで。だからそれ以上は絶対にしない」
「私は、今日は17時に何が有っても絶対に帰る(緊急な仕事が生じても本当に帰る)」
「私の給料が実際の仕事に比べて少ないから、賃上げしろ」
といった発言に対してだろうか。
だが、これらはドイツでは誰もが当たり前と考えている行為であり、自己主張というよりも、当然の権利要求とも言える。
これら発言は、法や秩序を守るドイツ人的概念を端的に顕している。
責任の明確化、作業分担による効率化、他人の仕事を奪わないとの配慮が窺える。
定時就業も賃上げも、不当な労働環境を生じさせず、しいては職場全体に正当性を生じさせ不平等感を無くす効果を齎す。
ドイツ人は、法や秩序を脅かすものに対しては、激しく抗議する。
例えば、集合住宅内で夜中に騒音が有った場合は、日本人であれば、事を荒立てないように注意するだけだが、ドイツ人は惜しげも無く激しく抗議する。
■ 「生きる力をつける ドイツ流子育てのすすめ」
日本では「責任」という言葉をよく耳にするが、それは、「上」の人が「下」の人に対して(先生が生徒に対してとか上司が部下に対して)のみ使っている言葉に思えてならない。
ドイツの場合、「上」へ行けばいくほど「責任」が問われるという考えが強いため、「下」の人が「上」の人に対して「責任、責任」とうるさく言うことはあっても、逆はあまりない。
日本の場合、自分や組織のやり方を「下」に押しつけるために、「下」の人に「責任をとってくれ」云々と言っているように思えてならない。
ドイツの場合「義務」と「権利」はセットになっていると言っていい。
一方日本の場合は、義務が多く権利主張は立場の上の人や目上の人から「ワガママ」と片付けられてしまうことが多い。
ドイツ的な考えでは、「上」へ行けばいくほど義務も多くなるのは当たり前だが、それに「下」の人を巻き込もうとはしない。
例えば、社長は残業しても部下は17時には帰ってしまう。
ところが日本は「下」の人に「義務」をたくさん押しつけたがる。
(社長が帰るまで部下が帰れないなど)
「義務」や「責任」というのは一応は訳すことはできても、その意味合いは両国でかなり違う。
意味合いというより使われる場面が違う、と言ったほうがいいのかもしれない。
これは教育現場でも明らかだ。
日本人が子どもに言う「責任」とは、イコール「人に迷惑をかけないこと」である。
欧米人には何が迷惑になるのかの幅がものすごく広いように感じられる。
例えば自分一人だけ違うことをするなど、ドイツ人から見たら何でもない行動が、日本人にとっては「わがまま」や「協調性がない」となってしまうのだから、同じ単語でもその違いには驚く。
ドイツ語で言う「権利」は、「あるもの」そして「通すもの」である。
例えば、有給をとる権利が法律上あるならば、必ず有給を全部とる、ということだ。
日本の場合、「権利」とは名ばかりで、立場や複雑な人間関係が優先され、使えない(通せない)ことがよくある。
また、日本では、「権利なんていう言葉は、一人前になってから言え」というお説教もよく聞く。
■ 「「すみません」の国 」
皿を割った日本人なら、直ちにいうに違いない。
「まことにすみません」
ていねいな人は、さらに「私の責任です」などと追加するだろう。
それが美徳なのだ。
しかし、この美徳は、世界に通用する美徳ではない。
まずアラビア人は正反対。
インドもアラビアに近いだろう。
フランスだと「イタリアの皿ならもっと丈夫だ」というようなことをいうだろう。
世界の主な国で、皿を割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。
「私の責任です」などとまでいってしまうお人よしは、まずほとんどない。
異民族の侵略を受けた経験の多い国ほど、自分の過失を認めないという法則がある。
日本人やイヌイットやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験が少ないため、お人よしいられる。
それは、きわめて珍しい境遇であるようだ。
日本的感覚からすれば、何かあったときには、とりあえず謝った方がいい。
そうした方が、その「場」の雰囲気が和やかになって、ものごとがスムーズに運ぶ。
国際的な場では、うっかり謝って自分の責任を認めたりしたら、とんでもないことになりかねない。
過失を認めたら、どこまでも賠償責任を負わされる危険がある。
日本の場合は、謝ったからといって、自分の非を認めたからといって、過度な賠償責任を求められるというようなことはない。
そのことが、謝るのを容易にしているのだ。
とはいえ、見ていて疑問を抱かずにいられない「すみません」もある。
企業や政治家の不祥事が表面化するたび、テレビで謝罪会見の模様が放映される。
それを見ると、どう見ても公に向けて儀式化された謝罪であって、ほんとうのところどう思っているのか知りたくなることがある。
日本の多くの組織での意思決定は、責任的立場にある個人が決定するというよりも、合議で決定するのが普通である。
それによって責任は分散されている。
ゆえに、何か問題が生じた場合でも、責任的立場にある人物が立場上謝罪しても、実際には自分の責任と感じていないことも少なくないといった事情もあるのかもしれない。
■ 何でもかんでも他人の責任にできるもんですよ
責任ってのは、きちんとした判断能力が無いと、正解に、全くたどりつけないで、結局、何もかも上手くいかないで、失敗して、俺は悪く無いと主張してしまうものでしょう。
最近の日本では、どんどん、他人の責任にして生きている人たちが増えているし、そういう考え方の方が正しいと教えている気もするし、それが、正解だと勘違いしている気がします。
おかしなことを、平気でテレビとかで放送されたり、新聞とか、雑誌とかで書かれていることも多々あるけど、それが、正しいと言うのが、普通になっていますね。
自分のことを中心に考え、分からないことでも適当に想像して判断している人が多いような気がします。
経営が悪化して、リストラしたり、工場を閉鎖したり、施設を売却したりと、会社を立て直そうとしている所が多いと思いますが、何か変じゃない?ってことです。
一見、正しいことをして、これから、頑張っていきます!ってことでしょうけど。
じゃあ、リストラされた人は?
工場が閉鎖されたら、その近辺の人たちは?
施設を売却って、無駄なことをしていたの?
元々、経営が悪化したのは、誰の責任なの?
何故、ひどくなる、もっと前から立て直せなかったの?
と言う疑問が浮かんできます。
工場だったら、運送会社とか、工場の近くに営業所があったけど、それが無くなったり、食堂の業者も大変だろうし、近くの下請けの工場も仕事が無くなると、、、、
工場を閉鎖して、リストラ何人とか他人ごとのように、自分が責任が全くないような感じで、平気で言ってますが、実際には、数字で表せない人もたくさんいるんですよね。
人間って、どうして、ここまで発展してきたの?って考えると、一つに、お互いに協力しあってきたからってことがあります。
何にするにしても、一人だけで頑張って出来ることなんて、たかだか知れています。
お金があれば、何でも出来るよって言う人もいるかもしれませんが、お金って結局、約束って言うか、人と人とのつながりをサポートしているだけで、お金なんて、ただの紙切れとなる場合もありますからね。
お金って、赤の他人同士でも、協力しあうために便利な道具ってだけで、お金があれば大丈夫と安心してもしょうがないですよね。
緊急時には、お金がいくらあっても、意味が無いですよね。
協力しあった方が楽なことが沢山あります。
一人で、食べ物だ、水だ、安全に寝れる場所だ、情報収集だ、と、全部やるより、分担して分け合ったり、共有化したりすることで、全員が助かるものでしょう。
一人一人がバラバラだと、助かるものも助からないものでしょうからね。
人件費を下げて、サービスは向上させて、、、って、非現実的なことを平気で言って、中途半端ことをしていたら、そりゃ〜そのお店に行きたいと思わなくなりますよね。
まず、働いている人が、自分もこういうお店に来たいなって思える店にしないと、駄目なんでしょうけど、最近は、裏事情を知ると、そのお店に行きたくないなってこともありますからね。
食材偽装だって、頑張って利益をだそうと、頑張った結果?でしょうしね。
普通の企業が、普通に悪徳商法をしている時代になってしまっている気もしますしね。
企業努力が、お客の為では無いのでしょうかね?
社員の教育だって、お金がかかるからって手を抜いていたら、いつまで経っても、良い社員は育たない。
お店なんて、簡単につぶれたりしますからね。
■ 「「自己責任」とは何か」
大事なことは、ヨーロッパ諸語での「責任」という言葉の語源が、「ある約束に対する応答、保証」という、人と人との約束事を意味する言葉だということです。
社会の中での人間関係を互いに規定する意味なのです。
漢字文化圏の「権力者から一方的に重荷を背負わされる」という語源である「責任」とは、だいぶ異なった語源であることがわかると思います。
欧米と日本との「責任」概念の差異は、この言葉の語源の差に由来しているのかもしれません。
「責任」という言葉は、明治20年代に法律用語として定着するのに対応して一般に使われるようになったと言えると思います。
それにしても、「責任」ではなく、「償い」「応答」といった言葉が訳語になっていたら、日本人の「責任」イメージも少しは変わっていたかもしれません。
「責」という言葉が、権力者から税金を取られる、しかられる、なじられる、つまり「いじめられる」というイメージであり、「任」も堪え忍ぶというイメージであることが、日本人にとって、「責任」が何やら暗いイメージの言葉になってしまった要因の一つではないでしょうか。
どのような場合も、必ず出来事の原因はあります。
その出来事のルーツにさかのぼって、失敗を検証し、そのつどの責任者の存在を明確にしてゆくことが必要です。
直接責任のない者に対して共同責任や連帯責任をとらせるのは、失敗をごまかす権力者の常套手段なのです。
「自己責任」という言葉も、責任概念を曖昧化する方向でしかないことは明らかだと言えます。
責任とは、「ある約束に対する応答」であることを忘れてはなりません。
■ なぜ日本人の3人に1人は「自力で生活できない人を政府が助ける責任はない」と考えるのか
「日本の貧困対策がどれほど貧困かよく分かる数字」
自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人が日本では三人に一人以上もいることがアンケートでわかりました。
・日本 38%
・アメリカ 28%
・イギリス 8%
・フランス 8%
・ドイツ 7%
・中国 9%
・インド 8%
日本はなんという生きにくい国なのでしょうか。
「人様に迷惑をかけるな」という日本的な美徳は、度が過ぎれば他人に冷酷であることの裏返しでもあります。
日米以外の国におけるこの値は、どこも8%〜10%くらいである。
イギリスでもフランスでもドイツでも、中国でもインドでもブラジルでも同様で、洋の東西、南北を問わない。
経済水準が高かろうが低かろうが、文化や宗教や政治体制がいかようであろうが、大きな差はない。
つまり“人”が社会を営む中で、自分の力だけでは生活することすらできない人を見捨てるべきではない、助けてあげなければならないと感じる人が9割くらいいるのが“人間社会の相場”なのである。
にもかかわらず日本では、助けてあげる必要はないと判断する人の割合が約4割にも達している。
日本は、“人の心”か“社会の仕組み”かのどちらかが明らかに健全/正常ではないと言わざるを得ない。
■ なぜ、「働けない若者」が増えたのか
自己責任の文脈で医療、介護、年金、生活保護、労働政策等々が語られる。
甘えないでください、頼らないでください。
経済的にも不安な世の中である。
不安だと人は余裕をなくす。
人のことまで構っていられない。
ですから皆さん自己責任でお願いします。
というスパイラルだ。
社会のセーフティーネットは高度経済成長時代のままで、支援は主に高齢者に振り向けられている。
右肩上がりで成長することが見込まれている時代においては、若いうちの貧困も「明日はおのずと解決するもの」であり、ならば若いうちに苦労しておくのはよい経験とも言え、美徳ですらあると思われていた。
だが、こうした前提はとっくに崩れている。
「どんな仕事でもいいではないか、文句を言わずに働け」というが、キャリアを積んでいく機会を奪われたものたちが、意欲を維持するのは大変につらいことだろう。
それでも、と頑張って頑張って、ついに心や体を壊してしまうこともある。
しかも一度無業状態になると人間関係や社会関係資本も途切れてしまい、一気に孤立してしまうのだ。
こうして履歴書に空白が出来ると、さらに厳しい状態に陥る。
これを「自己責任」で片付けても、現実には自助努力のみで抜け出すことはなかなか出来ない。
若者の雇用を取り巻くシステムの問題と、経済成長が以前のようには見込めないという社会背景は、個人のみの力ではね返せるものではない。
かくも多く無業者になってしまう状況は、彼ら自身のみならず、社会全体の大きな影響があるのは自明だろう。
「人生のボタンの掛け違い」は誰の身にも起こりうることにもかかわらず、やり直すチャンスが極端に少ないことが問題なのだ。
■ 「自己責任論」と生活保護バッシング
日本は「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が38%と、世界でもっとも多く存在する国だ(第2位はアメリカで28%)。
生活保護バッシングもそうだが、村の仕事をしない、出来ない人間に対して、村人は容赦ないのだ。
ある経営者は、かねてから「終身雇用、年功序列こそ日本型経営の宝」が持論だったが、よくよく話を聞くと、妊娠したり病気で有給を使い切ったりした従業員には退職勧奨するというゴリゴリのスパルタ人事であり、労組も事実上黙認していると聞いて驚いた記憶がある。
社会の真ん中に「日本国民はかくかくしかじかであるべし」みたいな模範像があって、そこから一歩でも外れたら自己責任として叩かれるような社会は御免こうむりたい。
■ 「自己責任論」が与える私たちの暮らしへの影響
実は、戦後間もない頃の旧生活保護法には、「自己責任論」が含まれていた。
受給要件を満たさない「欠格条項」があり、貧困に至った理由によっては救済がされなかった。
要するに、素行不良で怠惰な者は救わないというものだ。
しかし、何をもって素行不良とするのか、恣意的な判断がされるのではないか、などいくつも疑義が指摘された。
結局、生活保護における「欠格条項」は完全廃止され、現行生活保護法が1950年に誕生する。
とにかく、貧困事由を問わず、困っていたら保護をしたのちに、自立支援をおこない、自立を助長して行くというものだ。
いわゆる無差別平等の原理で保護を行うというものである。
現生活保護法の根幹理念のひとつといってもいいだろう。
なぜこの理念が重要なのかといえば、誰でも生活に困窮した場合に、保護の請求ができる権利を確立したということ。
要するに、誰でも困ることがあり、その際は権利があるのだから、保護を請求することができることを明確化した。
『誰でも』ということがとても重要だ。
皆さんも困ったときに、必要にもかかわらず、ああだこうだと言われ、救済されなかったら死んでしまうかもしれない。
実際には、「親族を頼れ」、「仕事を探せ」など状況を把握しないまま、福祉事務所が対応を誤り、餓死や孤立死に至った事例がいくつもある。
このような事態を防ぐために無差別平等の原理を掲げた。
だから、社会保障や生活保護は、「誰でも困る可能性がある」という事態を事前に想定した先人の知恵である。
しかし、この確立した国民の権利を自分たちから放棄しようとするのが「自己責任論」である。
困った時に救われなくてもいい。
自分はそのようなことにならない。
そんな風に思っているのだったら、大きな間違いである。
多くの生活保護受給者は「生活保護になるとは思わなかった。生活保護があって本当によかった」と口にする。
次はあなたの番かもしれない。
■ 自己責任論と責任転嫁論て同じじゃないか
他人に責任を押し付けるのは簡単だ。
誰かの責任だと他人を責め立てて何が成し遂げられるのか。
自己責任論は責任転嫁論であり、責任転嫁論は自己責任論と同じでないか。
■ 「日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?」
若者からの相談は、本当にひどいものばかりだ。
たとえば、入ったばかりの会社で、いきなり「使えない」と言われて、イジメがはじまる。
そしてうつ病になり、「自分から辞めるしかない」状態に追い込まれる。
あるいは、入社した会社で長時間のサービス残業を求められる。
休日に出勤を命じられることもある。
それでも「自分は甘い」と思って頑張ってきたけれど、もう身体も心も限界だ、といった相談。
こうした状況に追い込まれても、私たちは「自分が悪い」「どうしようもない」としか考えられない。
どんなにそれが違法な状態でも、相談に来る若者が「会社が悪い」と考えていることは、めったにない。
だが、みんな「おかしい」と思っているはずだ。
いくらなんでも、日本の「労働」には無理がある、と。
最近では、ようやく「ブラック企業」という言葉が世の中に広がってきた。
若者のひどすぎる職場環境が、やっと社会問題になってきたのだ。
しかし、マスコミの論調は、「ブラック企業を見分けろ」というものばかりだ。
正直、「見分け方」ばかりの論調には疑問を感じている。
単純に考えてわかることだが、いくら努力したところで、見分けるのには限界があるだろう。
どんなに対外的に「いいこと」を言っていても、その会社に入ってみるまでは、わからないことだらけだ。
また、見分けたところで、ブラック企業からしか内定が取れなかったら、結局、入社するしかない。
「見分けろ」という議論は、ヘタをすると、「見分けないやつが悪い」「ブラック企業にしか入れないやつが悪い」と、ブラック企業を正当化することにもなりかねない。
これでは、せっかくブラック企業が社会問題になってきたのに、私たちの苦しさは何も変わらないではないか。
それどころか、「見分けろ」という圧力が、さらなる負担となって私たちにのしかかってくる。
■ 「逃げる中高年、欲望のない若者たち」
少子化で子どもや若者の数が減っているのに、どうして就職できない若者が大勢存在するのか、という問いも、説明がむずかしい。
20歳になっても、30歳になっても、家からほとんど出ない社会的引きこもりという人々がいる、という事実もそうだ。
海外のメディアのインタビューを受けて、困る質問の典型は、
「どうして日本人は無理をして死ぬまで働くのですか、どうして過労死という奇妙なことが起こるのですか」
「家族のために働くのが常識なのに、どうして単身赴任という制度があるのですか」
だった。
他にもいろいろある。
なぜ中高年の自殺者がこれほど多いのか
少子化で労働力が足りないといいながら、どうして保育所が足りないのを放置しているのか
などだ。
わたしたちの社会で流行する言葉は、ある事実や状況を正確に表現するというものではなく、ミもフタもないリアルな現実を覆い隠すためにある場合が多い。
これから何をどうすればいいのかわからない、という社会・個人にとって、とても使い心地のいい言葉なのである。
■ 「ヒーローを待っていても世界は変わらない」
多様な人々が遍なく活用できるというニュアンスを超えて、多様な人々の多様性を積極的に生かすという意味で「ダイバシティ」という言葉も使われ始めています。
日本人男性とは違う、女性や外国籍の方たちの、その人たちならではの視点を生かして行う経営のことを「ダイバシティ経営」と言ったりしますが、最近ではそちらのほうが、日本人男性のみで会社を運営するよりも生産性が高まるとも言われています。
多様な人たちの多様性が積極的に生かされる社会は、当然、多様な人たちの多様な参加形態が多様な形で保障される社会である必要があります。
望んでも社会参加がかなわず、他人と十分に刺激し合うこともできなければ、その人の力が十分に開花する条件は整わないからです。
ところがこの問題は、しばしば意識の問題とした語られてきました。
「条件が整わないとできない、なんて言わずに、がんばってやればいいじゃないか」
「その気になれば、なんだってできるよ」
という理屈です。
日本人は、この発想が大好きです。
「だから、できないのは本人の責任」という、いわゆる自己責任論もここから出てきます。
「困難があってもくじけない、強い気持ちが大事」という意味では、私も賛成します。
ただ、そのことがあまり強調されすぎると「すべては本人の気持ち次第」ということになって、社会は何もしなくてもいいことになってしまう。
どんなに悲惨な貧困家庭で育った子どもでも、将来大成して大成功をおさめた人はいるでしょう。
しかし、だからといって、貧困家庭の子どもたちに何もしないで放置しておいていいのかと言えば、それは違うと思います。
10人に1人か2人はそういう人がいたとしても、残りの8人9人のことも考えないと、社会は全体としてはうまく回らないだろう、と思います。
誰かの責任にして話を終わらせてしまっています。
それを別々の人たちが、ときに正反対の方向から言っています。
お互いが言い放つだけでは現状は変わりません。
なぜなら、現状とはその結果だからです。
■ 努力という才能
「他人にどこまで努力を求めてよいか?」という問題は結構微妙になる。
例えば、Aさんは努力すれば1日16時間の勉強ができる。
一方で、Bさんはどんなに努力しても1日3時間の勉強がやっとだ。
この場合に、BさんをAさんよりも「努力していない」と考えるのは妥当だろうか?
日本は、「努力の結果ついた差については許容しよう」という考え方で社会が回っている。
しかし、「努力の才能」がなかったために、他の人より結果が著しく悪くなってしまった人を「自業自得」と考えるのは正しいのだろうか。
たしかに、頑張った人は報われるべきだろう。
それは間違いない。
では、「頑張れなかった人」は報われなくてよいのだろうか。
■ 自己責任論ってどんどん拡大してない?
主に批判派の手によって勝手に拡大されてる感がある。
そもそもの自己責任論って、「赤信号でわたって事故ったとか自己責任だろ」というような意味でしか使われてなかったじゃん。
それがいつのまにか「交通事故にあうのは自己責任って自己責任論者は言ってる」ぐらいになってる。
■ 「助けてと言えない − いま30代に何が」
90年代に入ると、バブル崩壊とともに長期低迷が続く。
経済は収縮し、企業は合理化を進めた。
いまの30代は自分でなんとかしなければならない「自己責任」の風潮のなかで育ってきたといえる。
私たちは、助けを求めようとしない30代が増えていることを知った。
「家族に迷惑をかけられない」
「自分で仕事を見つけて何とかする」
彼らはまさに「自己責任」として自分を責め、誰にも相談せず、家族や友人、地域とのつながりを断ち切って孤立していた。
「30代でありながら」という自己反省とともに、助けを求めることを恥とする気持ちが伝わってきた。
30代に入ると、生活の格差をより強く実感するようになり、家庭を持って幸せに暮らす同年代に対して、いまの自分の姿を見せたくない心境もうかがえた。
「社会はその人の責任だと言い続けて来た」
「苦しい状況に陥っても、それは自分の責任だと」
「そういうことを、社会が若い人たちに思わせているのではないか」
一度の失敗やきっかけで人生がうまくいかなくなったとき、そこから這い上がることが容易ではないことを、当事者たちは語っている。
30代の姿には、いまの社会が映し出されている。
「別に相談することでもないですよね」
「どうにかするということです、自分で」
「こういう状況になったのは、自分の責任ですから」
「だから相談する必要がないんです」
自分の責任。
自己責任。
「彼らは、本当はギリギリのところまで追い詰められているんだけど、まだ自分で頑張れると思って、自分で頑張っている人たちなんだと思う」
「彼ら自身の思い込みかもしれないけど、僕は社会がそうさせていると思うんですよね」
「自己責任論ということを社会は言ってきた」
「この社会が、自分の責任だと言い続けてきたんですよ」
「だから、本当に苦しい状況になっても、それは自分の責任だと」
■ 「希望格差社会」
自分自身のことに対しては、自分が決定する。
これが自己決定の原則である。
そして、自分で選択したことの結果に対して、自分で責任をとる、これが「自己責任」の原則である。
リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。
リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められているのだ。
失業したり、フリーターになるのは、自分の能力の問題である。
離婚したのは、離婚するような相手と結婚したからである。
そして、保険会社が倒産して保険金がもらえないのは、危ない会社を選んだ個人の責任であるというように、保険というリスクヘッジに伴うリスクの責任までもとらされるのである。
現在日本では、リスクの普遍化が進行し、「意志によっては」避け得ないものとなっている。
そして、リスクが避け得ないものとなると同時に、個人は、そのリスクをヘッジすること、そして、生じたリスクに対処することを、個人で行わなければならない時代になっている。
そのリスクに対処しなくてはいけない個人の間に差がついているのが、近年の傾向なのだ。
経済の高度成長期は、モノ作りを中心とした「大量生産、大量消費」の時代であった。
かつ、日本では、中小企業や零細農業に対して国家的保護が加えられた。
そこでは、みんなが同じものを欲しがり、同じような快適な生活を作りたがっていた。
そのため、多くの企業にとっては、生産を効率的に進めるために、労働者を自社の生産システムに合うように教育し、長期間抱え込むことが合理的だった。
そこで、長期安定、かつ、賃金上昇が期待できる職に多くの男性が就くことができた。
これを労働者の側から見れば、定年まで職が保証され、賃金や地位が上昇する「終身雇用、年功序列」制となる。
しかし、一方、現代社会は、グローバル化やIT化が進み、モノよりもサービスが優勢になる時代である。
そして、なによりも、生活するには困らない程度の豊かな社会が実現している。
そこでは、豊かになった消費者が求める多様な商品を、より安く提供しなければならないという圧力が加わり続ける社会である。
もう一通りのモノを持っている現代社会の消費者は、ただの「モノ」では満足しない。
そこでは、他人との差異を消費したり、美的感覚を求めることになる。
消費や評価を見せびらかすための消費の時代が到来したのである。
すると、企業は、モノであれ、サービスであれ、個々人に合ったものを作り出す必要に迫られる。
今まで通り同じモノを大量に作ってもなかなか売れないのである。
自己実現できない状態に出会えば、自己不全感に陥る。
中には、絶望感に陥り、自殺する人も出てきてしまう。
自己実現ができずに、状態が悪くなったとしても、誰のせいにもできない。
つまり、「自己責任」概念が発生する。
自己責任は、個人の感情状態に相当の負荷をもたらす。
同時に、自己実現の強要という事態も現れる。
リスクをとることが賞賛されるとなると、リスクをとらないでいること、自分の理想をもたないこと、目指さないこと自体が非難されるものとなる。
近代人には、理想的な状態を自分の力でもたらしなさいというプレッシャーが、常にかかることになる。
あまたある「生活指南」の中で、近年、急激に増えているのは、個人に能力や魅力をつけろ、そのために、もっと頭を使え、努力しろというものである。
これは、リスク化した社会に適合した人間を目指すという意味で、もっともな主張にみえる。
リスクに耐えるような経済的能力や人間的魅力を、自分の責任でつける時代になったということである。
仕事の分野では、就職のための予備校が盛況である。
そして、薬剤師や栄養士など資格がとれる大学の学科の人気は上がっている。
起業の勧めから、副業の勧め、よい転職の仕方、あなたに合った有利な資格を紹介する記事やマニュアル本は、数え切れないほどある。
家族生活の方でも、理想的な結婚相手をみつけるための指南書から、出会いを斡旋する企業や団体、離婚・再婚をサポートする団体や企業もある。
そして、老後に余裕のある生活を送るためには年金以外にどれだけ資金が必要であるといった記事がにぎわう。
教育の分野では、公立学校(中学校、高等学校)の学力低下、それ以上に、やる気の低下を避けるため、この不況にもかかわらず、教育内容のしっかりした私立学校の人気が高まっている。
しかし、これらの方策は、リスク化、二極化に個人的に対処するために、通常以上の努力を要求するものである。
学校に入っただけでは職に就けず、職に就いても自己研鑽に励まなくてはならず、結婚するためにも、子どもの教育のためにも従来以上のお金をかける必要がある。
これらの努力は、そもそも能力や魅力のある人が行なって初めて実るものである。
いくら工夫・努力をしても、「椅子の数」が限られている場合は、もともと仕事能力や魅力のある人が有利である。
能力や魅力をつけるためには、お金が要る。
また、老後、年金以外にこれだけの資金が要ると言っても、それを調達できるのは、ほんの一握りの人である。
能力や魅力、資金のない人々にとって、いくら「自己責任」でリスクに対処しろと言っても、そのすべがないのだ。
そして、個人で仕事能力や魅力をつけるべく努力しても、それが、報われるという保証はない。
たとえ、学校以外に専門学校や職業訓練校に通ってある程度の技能を身につけたからと言って、職が保証されるわけではない。
老後の資金を用意しても、夫婦とも100歳まで長生きしてしまっては資金も底をつく。
つまり、リスクに対処すること自体も「リスク化」しているのである。
社会が二極化、リスク化によって不安定になると、その不安定に適応するための個人的対処自体が二極化、リスク化するのである。
ある若者にインタビューすると、「努力を要求されることに疲れ果てた」という答えが返ってきた。
努力すればなんとかなると言われ続けて勉強したが、結局、職や生活の見通しもつかない状態になり、それも「努力しなかったからだろう」と言われるのがもっともつらいと語っていた。
近年、フリーターと呼ばれ定職に就かないでアルバイトを転々とする若者が増えていることが話題になっている。
学卒者の就職難が深まり、加えて若年失業者も増大している。
この若者の職業の不安定化現象に関しては、たひたび報道されている。
しかし、その原因、結果、対策に関して、2つの大きな誤解があるように思える。
一つは、このような雇用の不安定化が生じたのは、日本経済の不況が原因であり、景気が回復すれば、自然と問題は解決するという誤解である。
もう一つは、若者は、企業に縛られることを嫌い、自分のやりたいことをやるために、「好きで」不安定雇用を選んでいるのであり、定職に就かせようなどと考えるのは余計なお節介であるという誤解である。
この2つの誤解は、現在職業世界に起こっている変化が「構造的」変動であることを見落としていてる。
好況と言われる国であれ、不況に陥っている国であれ、若者の職業の状況は厳しいのである。
日本で職業が不安定化しているのは、一時的な不況のせいではなく、産業システムの構造変動にその理由を求めなくてはならない。
また、選ぶ自由があるからといって、望む選択肢が実現するとは限らない。
若者に関しては、不安定な職を「選ばざるを得ない」状況に追い込まれている。
若者の意識変化は、そのような状況に適応した結果生じたのであって、その逆ではないことを強調しておきたい。
ニューエコノミーの推進論者は、「自己責任」と答えるだろう。
これらの生活にリスクがあることが分かっていて、それを実現できなかったのは、自分の才能や努力が足りなかったというわけなのである。
チャンスがあるのに、それを生かせなかった人が悪いと。
もちろん、敗者に対しては、セーフティネットを用意して、最低限の生活を送れるようにする。
そうすれは、人々は安心してリスクに挑戦できるようになるというものである。
このような制度を利用すれば、生存しつづけることはできる。
ただ、このような最低限の経済的保証は、人々に安心や希望をもたらすだろうか。
ニューエコノミーの「負け組」とは、単に生活ができなくて、住居がなくなったり飢えに苦しむ人ではない。
「生活に希望がもてなくなっている人」である。
相対的に豊かな社会では、人間はパンのみで生きているわけではない。
希望でもって生きるのである。
ニューエコノミーが生み出す格差は、希望の格差なのである。
一部の人は、努力がオールドエコノミーの時代以上に報われるが、その反対側では、努力が報われないと感じる人を産むのである。
ニューエコノミーが、平凡な能力の持ち主から奪っているのは、「希望」なのである。
■ 「「ニート」って言うな!」
「ニート」はイギリスで生まれた「NEET」(Not in Education, Employment or Training)という言葉をカタカナ表記した言葉です。
いずれの語も、学生でもなく働いてもいない若者を意味しているという点では共通しています。
ただし、イギリスとでの定義と日本での定義との間にはいくつかのずれがあります。
ずれのひとつは年齢層です。
イギリスの「NEET」は、16〜18歳という、ごく若い狭い年齢層を対象とした言葉ですが、日本でいわれる「ニート」は、15〜34歳という幅広い年齢層を対象としています。
またもうひとつの大きな違いは、イギリスの「NEET」は失業者を含むのに対して、日本の「ニート」は失業者を含んでいないということです。
「ニート」という言葉が日本に導入された段階で、定義的に失業者が除外されたことがきわめて問題なのです。
求職行動をとっている人が、なぜか日本版「ニート」の中には含まれていないがゆえに、その定義からして必然的に「働く意欲がない人」というような日本独自の「ニート」のイメージが普及してしまったのです。
もし「ニート」に当初から失業者が含まれていれば、現在はびこっているような「ニート」論は成立しなかったはずです。
なぜなら失業者という存在は、本人は仕事に就こうとする積極的な行動をとっていても就けていないわけですから、失業者を論じる際には当然、
「なぜ仕事のポストがないのか」
「なぜ企業は人を採ろうとしないのか」
という問い、すなわち労働需要側(企業側)のあり方への問いにつながらざるをえないからです。
もし若者失業に焦点を当てていれば、労働需給の客観的構造自体が注目され、労働需要を刺激し回復するための方策として何が可能なのか、という方向で取り組みが進められていたはずです。
それがいまや、失業者を定義上除外している日本版の「ニート」ばかりが強調され、「働こうともしていないんだから、本人が悪いんだろ」というような言われ方をすることによって、労働需要側の問題ではなく、労働供給側である若者の自己責任にすべてが還元されるような風潮が支配的になっているのです。
若者がなんだか情けなくなって、働けなくなっている、といったような世論のなかで、今になって再び、そうした企業社会に耐えられないと言っている弱っちょろいふにゃふにゃした若者を、きちんと会社で働けるようにしてやらなければいけない、という風潮に逆戻りしています。
つまり、会社の厳しい環境に耐えられるようにしつけをしよう、叩き直してやろうという形で、教育が施されるのです。
本来ならば経済の問題や公正な分配の問題であったり、人格権の問題であることが、教育の問題に置き換えられ、普段ならやってはならないとされることがやすやすと支持を得てしまいます。
本来、労働条件が非常に悪いとか、職場組織のなかで人格権が認められない、というのであれば、企業の方が社会的な責任を負うべきです。
過度の残業を強要する会社や、嫌がらせが横行している会社、人間に優しくない企業の側が社会的な責任を負って、改善を図るべきです。
われわれは長らく、正社員として人格を明け渡して「社畜」状態で安定するか、「フリーター」として貧困で不安定な生活をするかという二者択一を強いられてきました。
問題を捉え直せば、日本社会の働き方を根本から問い直すチャンスになるはずです。
■ 「ルポ 若者ホームレス」
そもそも彼らはなぜ「助けて」と言えないのだろう?
彼らは「自己責任」という言葉をたびたび口にする。
ホームレス状態にあるのはすべて自分のせいだから人に頼ることはできないし、頼るつもりはないという姿勢を決して崩そうとしない。
「自己責任」にこだわり、他人の介入を拒否し、関係を断ってしまったのとは裏腹に、孤独や不安に押しつぶされ、今にも砕け散ってしまいそうな心がある。
「自己責任」に埋没した結果、助けを求められない、求めようとしない人は非常に多い。
しかし、心が折れそうな時、誰かの助けが必要な時、声を上げなければ、周囲の人たちはその声に気づくことはできない。
聞き取り調査の際、「行政や社会への不満や望むことは?」という質問を投げかけた。
セーフティネットの欠陥や派遣切り等に対する不満が挙げられると思っていたが、「特にない」と答えた人が圧倒的だった。
むしろ、大半の人が、現在の状況は自分の性格や過去の行いが招いたものだから、社会に責任はないと「反省の弁」を口にしている。
苛酷な現実の中で、自ら「助けて」とサインを出せない若者ホームレスたちが大勢いる。
■ 「おっちゃん、なんで外で寝なあかんの? ― こども夜回りと「ホームレス」の人たち」
野宿をしたことのない多くの人たちは、こう言うことが多いのです。
「まじめに生活していれば、ホームレスになんかなるはずがない」
「野宿するようになったのは、その人の努力が足りなかったからだ」
もちろん、野宿をするようになるときには、人によってちがういろいろな理由があって、みんな同じではありません。
(たとえば夫の暴力や、けがや病気という原因の場合もあります)
でも、「野宿するようになったのは、その人の努力が足りなかったからだ」という人は、いろいろな原因をひとつだけにまとめて「本人が悪い」と言うのです。
それを、よく「自己責任」とか「自業自得」などと言います。
そして、ときには野宿をしている人自身も、「野宿をするようになったのは自分が悪かったからだ」と言うこともあります。
いすが3つあって、そのまわりに5人の人がいるとします。
そして、音楽が続いている間はいすのまわりを歩いて、音楽が止まるとパッとすわります。
この場合、3人がすわって2人がいすを取れません。
このとき、Aさんがいすを取ったとします。
Aさんは「わたしは人よりがんばった。だからいすが取れたんだ」と思うかもしれません。
そして、Bさんがいすを取れなかったとすると、Bさんは「わたしの努力が足りなかったからいすが取れなかった。だから自分の責任だ」と思うかもしれません。
この場合、いすは「仕事」にあたります。
仕事がなくなれば、収入がなくなって、いずれは家賃がはらえなくなって、最後には野宿をするようになります。
これは、それほど金持ちではない多くの人にとって、そうなってもおかしくない話です。
こうして、どんどん「いす取りゲーム」をしていくとします。
ここで、ゲームの参加者みんながいまの100倍の努力をしたらどうでしょう。
その場合でも、いすの数は3つですから、もちろん3人しかすわれません。
では、全員がいまの1万倍、あるいは100万倍がんばって走り回ったとしたら?
それでも、誰かがいすを取れば、誰かがすわれないだけですから、当然なんの変わりもありません。
つまり、いすを取れるかどうかは「個人の努力の問題」ではなくて、「いすの数」と「人間の数」の問題なのです。
いすの数や人間の数は、もともとゲームをはじめるときに決まっているので、このような問題のことを、「構造的な問題」と言うことがあります。
昔とくらべると、仕事のない人の割合が日本でどんどん増えていきました。
これは、「いす取りゲーム」でいうと、人の数にくらべて、いすの数が減ってきた状態になります。
こうして、いす(仕事)がなくなって、野宿をする人が増えたのだと思います。
決して、「努力の足りない人」や「野宿の好きな人」が日本で急に増えたからではありません。
けれども、いすを取れなかった人が「取れなかったのは、自分の努力が足りなかったからだ」と考えてしまうように、野宿をするようになった人自身も「自分の努力が足りなかったからだ」とつい考えてしまうのです。
「野宿をしているのは自業自得だ」と言う人は、野宿をしている人たちの話をよく聞いてほしいと思います。
そして、本当にその人だけの問題だったのか、「いす取りゲーム」のような問題もあるのではないかと、一度考えてほしいと思います。
■ 自己責任論の呪縛 「相談=負け組」発想の諸形式
男性は、精密機器メーカーの非正規労働者だったが、リストラで仕事を失ってホームレスになり、2日間に100円のパン1個という暮らしをしていると紹介された。
その中で彼が
「自分が悪い。それ以外の言葉はない」
と言ったところ、共鳴する書き込みが3日で2000件以上あったという。
「今の自分は努力しなかった結果だ。つい自分を責めてしまう」
「相談すれば負け組になる」
「1度でも助けを求めたらそこで終わり」……。
「自己責任論」のオンパレードである。
37才の女性。就職氷河期の1995年、化粧品会社の正社員として採用される。
が、成果主義の下、結果を出さないと「代わりはいくらでもいる」と罵倒される。
そのうちに母親が体調を崩し、世話をする必要に迫られる。
会社に迷惑をかけると介護休職もとらなかったが、結局、仕事を続けられなくなり会社を辞める。
女性は「助けてもらうという発想がなくて必死で走っていた」と話す。
北九州市の男性に支援の手を差しのべようとする、ホームレス支援NPOの代表は、
「リーマンショック以降、まだ家族との関係が身近にあると思われる若者たちが、家族の所に帰れないで自分が頑張るしかないと路上で佇む姿が見受けられた」
とし、その背景を
「彼らの中学生くらいからが自己責任論の時代で、責任を果たせない人間は人前にも、親の前にも立てないと、彼ら自身も呪縛された」
と見る。
「自己責任論は、社会の側や周りの人たちが助けないための論理」
だとし、
「生活保護とかハローワークとかの受け皿も大事だが、それをつないでいく人の役割がもっと大事。伴走的に支援して行くコーディネートの役割が社会的に保障されなければいけない」
と語る。
■ 「「上から目線」の構造」
母性と父性のいずれが人々の行動原理としてより強く機能しているかによって、母性社会と父性社会に分けることができる。
日本が母性の強い社会だというような議論は耳にしたことがあるのではないか。
欧米社会が厳しい競争を勝ち抜くことが求められる父性社会であるのに対して、日本は厳しい競争を排除した母性社会である。
では、日本が母性社会だというのは、どのような意味なのか。
引きこもりは、2010年にオックスフォード辞典に採用され、英語になった。
「甘え」もかつて英語になったが、「引きこもり」も英語になったということは、いずれも英語圏にはそれに相当する言葉がなかったわけであるから、きわめて日本的な心性を反映した現象といえるだろう。
昨今の受験事情や就職事情の厳しさを引き合いに出して、日本も競争の激しい社会になってきたと言いたくなる人もいるだろう。
だが、現実にきつい思いをしている人がいることと、社会を貫く基本原理に厳しさが強いかどうかとは、別の問題である。
たとえば、つぎのような事情を見てみよう。
日本では、飛び級というのは非常に例外的であって、同じ年齢の子どもたちは能力に関係なく同じ学年というのが今でも基本になっている。
これは、父性原理に基づく国の人たちからすれば、理解に苦しむことだろうが、私たち日本人にとっては何の違和感もない。
能力が違ったって、同じ年齢なら同じ学年。
これは、まさに母性原理に基づく発想だ。
学校と違って、会社では年功序列が崩れ、欧米のように能力主義が導入され、能力による選別評価が行われるようになってきた。
しかし、その能力評価が必ずしもうまく機能しないことが少なくない。
温情が加わったり、個人が突出しないような配慮がなされるなど、純粋な能力評価よりも場の均衡の維持を優先させる傾向が強いからではないだろうか。
これも母性原理に基づく発想だ。
国政を見ていても、日本の総理大臣は、自分の主義主張で動くというよりも、自分の属する組織の中に不満が生じないようにみんなの要求充足のバランスをとることに腐心する。
そのため、だれがなっても大して変わらないと揶揄されることになる。
これも母性原理が強いことと無関係ではないだろう。
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うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったかのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「うぉー・・・、自己責任とか自助努力とかって・・・!ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「自己責任って言うけど、自助努力って言うけど、やっぱ限界があるよ・・・ 。。。(〃_ _)σ‖ 」
「そーだそーだ!自己責任って言うヤツほど、自己中なんだよー! o(><;)(;><)o 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「はあ?それがどーしたのさ???自己責任は自己責任じゃん! q( ̄3 ̄)p 」
「はあ?だから何さ???努力しないヤツが悪いに決まってるじゃーんw ( ゜∀゜)アハハ八八 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
ふーむ・・・
他にも、例えば・・・
■ 「根本的な原因とは?真因とは?今見えている問題って本当の問題?」シリーズ
■ 困り事や悩みなどを相談しやすい組織と相談しにくい組織って何が違うんだろう?
■ 誰にも相談しない、相談したくない、相談できない理由って何だろうか?
■ 自律型人材は、一方的に教えて育てる教育で育てられるんだろうか?
■ 思考停止を招く教育とは?従業員の主体性や向上心が育つ人材育成って?
■ 「研修とは?本当に役立つ社員研修や管理職研修って?組織力との関係って?」シリーズ
■ 「人材育成とは?何のため?誰のため?どんな時に必要なんだろうか?」シリーズ
■ 人材育成をマーケティング・コンセプトから考えると見えることって何だろう?
■ 「海外の教育現場(共育現場)ってどんなの?自律性や主体性は育つ?」シリーズ
■ 「英語などの外国語の知識があってもコミュニケーションがとれない原因って?」シリーズ
■ 「グローバル人材とは何だろうか?グローバル化や国際化って?」シリーズ
■ 「日本人の強みや弱みとは?外国人には真似できないことって何だろう?」シリーズ
■ 「日本の良さとは?外国人や海外経験のある日本人が感じる事って何だろう?」シリーズ
などなども含めると・・・
自己責任、自助努力、自業自得とかと、理念・ビジョン・ミッションなどとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、戦略とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、方針とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、生産性やタイムマネジメントなどとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、付加価値とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、コンプライアンス違反や企業不祥事などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、キャッチコピーやキャッチフレーズ、スローガンや標語などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、ノルマとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、おもてなし、ホスピタリティ、サービスなどとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、顧客満足度とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、独自性や優位性、差別化、競争力(国際競争力)などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、取引先や従業員からの信用や信頼などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、リストラとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、助成金や補助金などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、倒産や廃業、経営破綻などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、人材採用とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、人事異動や配置転換、適材適所などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、権限委譲やエンパワーメント(エンパワメント)などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、人事評価や人事考課などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、人手不足や人材不足などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、組織や組織文化・組織風土などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、人材育成とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、社員研修やセミナーなどの研修の類とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、教育(共育)とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、自律や自立、自分で考えて行動する力などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、協調性や主体性、自発性などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、やる気や向上心、チャレンジ精神などとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、出る杭を打つ組織なのか出る杭を打たない組織なのかとは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、当事者意識や危機感などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、問題発見力や問題解決力などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、マネジメント力やリーダーシップ力などとは、何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、経営者の役割や仕事とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、管理職の役割や仕事とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、一般従業員の役割や仕事とは何がどう関係するんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、人事部(総務部)や営業部、製造部などの各部門の役割や仕事にはどんな関係があるんだろーか?
自己責任、自助努力、自業自得とかと、下請け企業や親会社(親事業者)などの取引先にはどんな関係があるんだろーか?
なんかについても、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
と言う訳で、「意味が曖昧な言葉から、自律的に考えて行動してみる」カテゴリとしては、
■ 競争力とは?国際競争力とは?競争力の強化って何のため?誰のためなんだろう?
へ、続きまーす。(^^)/
ちょっと興味あるかも〜?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/
「そーか・・・、そーだったのかー(滝汗)!」と言ってくださる優しい方は、
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首を長ぁーくして、お待ちして申し上げております。 m(_ _)m
【追伸1】
「・・・で、答えは何なの???」と思った方へ
よろしければ、以下の記事も見てやっていただけると嬉しいです。(^^)
■ 「自分で考えて行動する「自律型人材」が育つ組織って?」ブログについて
■ 「答えが見つからない、探しても解決策が見つからない原因って何だろう?」シリーズ
■ 「自分で考える」と「独りで考える」って同じ?自律性などとの関係って?
■ 「自立」とは?「自律」とは?その違いって?自律型人材とは?
■ 「社長、上司、部下、会社組織にとって本当に必要な支援って何だろう?」シリーズ
【追伸2】
「三方よしって、何???」
という方は、よろしければ以下のページも見てやってもらえると嬉しいです。(^^)
■ 三方よしって、何だろう?
- 客観的な視点で考えられる時、主観的になりがちな時との違いって?
- 相対的とは?絶対的とは?相対評価や絶対評価が適している時って?
- 事例とは?前例とは?先例とは?実例とは?どんな時に役に立つ?
- サンプルとは?見本や手本とは?どんな時に役立つ?役立たない?
- テンプレートとは?フォーマットとは?定型文とは?どんな時に役立つ?
- ワーク・ライフ・バランス(WLB)とは?何のため?多様性などとの関係って?
- ブラック企業とは?ブラック会社とは?会社がブラックになった原因って?
- おもてなし、ホスピタリティ、サービスなどって誰のため?何のため?
- 顧客満足とは?顧客満足度の向上って何のため?誰のためなんだろう?
- メリットとは?デメリットとは?何を基準に誰がどう判断するんだろう?