「相対的と絶対的って、どう使い分けたらいいのかわかりそーでわからないんだけど・・・ (;゜д゜) 」
「相対的な基準って、どーゆーことなんだろ〜??? (;・∀・) 」
「絶対的な基準って、どーゆーことなんだろ〜??? 。゚(゚^o^゚)゚。 」
「どんな時には相対評価にした方が適していて、どんな時には絶対評価の方が適しているんだろ〜??? o( ̄_ ̄|||)o--- 」
「どんな状況だったら相対的な基準で判断した方がよくて、どんな状況だったら絶対的な基準で判断した方がいいんだろ〜??? (|||▽ ) 」
などなど、このような声をお聞きすることもあるんですが・・・
「三方よしの経営相談」や、「自律型人材育成」、「組織力の強化や向上」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」のお手伝いを行なっているからか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからか・・・
いろんな意味で、考えさせられるコトもあるんですけど・・・
ンーン (( ̄_ ̄*)(* ̄_ ̄)) ンーン
一見、全然関係ないように思えるかもしれないけど、コレってもしかしたら・・・
■ 「自社の強みや弱み、長所や短所、状況や現状などの判断基準って?」シリーズ
■ 「強い組織の作り方とは?強い組織か弱い組織かの判断基準って何だろう?」シリーズ
■ 「組織じゃないとできないこと、組織でなくてもできることって何だろう?」シリーズ
■ 「いい会社や働きやすい職場について考えてみると気づく事って何だろう?」シリーズ
■ 「やる気、向上心、チャレンジ精神などが持てる組織ってどんな組織?」シリーズ
■ 「会社や部署、部門等を国にたとえて考えると気がつくことって何だろう?」シリーズ
■ 「普通とは?一般的とは?当たり前とは?誰がどんな基準で決めるんだろう?」シリーズ
■ 「日本人の生産性が低い理由って?生産性の向上ってどういう事なんだろう?」シリーズ
■ 「日本人の強みや弱みとは?外国人には真似できないことって何だろう?」シリーズ
■ 「日本の良さとは?外国人や海外経験のある日本人が感じる事って何だろう?」シリーズ
などなどにも、ある意味関係するっちゃーするのかも〜???
フムフムフーム (`・ω・´) フムフムフーム
なーんて、感じることもあるので・・・
一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも〜?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。(^^)/
んーと、まずは・・・
例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?
■ 相対的とは?
○ コトバンク
他との関係において成り立つさま。
また、他との比較の上に成り立つさま。
○ Weblio辞書
他との関係・比較の上で成り立っているさま。
■ 絶対的とは?
○ コトバンク
他の何物ともくらべようもない状態・存在であるさま。
○ Weblio辞書
物事が絶対であるさま。
何物にも制限されないさま。
■ 相対評価とは?
○ ウィキペディア
相対評価は、評価のうち、複数の被験者、試料の間で相対的に行うもの。
相対評価の考え方は「集団の絶対数が多くなればなるほど、その成績の分布はおよそ正規分布に近づく」という統計学の理論を基本としている。
しかし、実際の学力試験ではその成績分布が正規分布にならないことが多いことはよく知られており、上記の基本的な考え方は実態にそぐわない面がある。
相対評価による評価方法は、教師が極端に偏った評定(例えば全ての生徒が5)をつけることを排除する一方、成績上位者、すなわち5を取る生徒が固定化するような側面もある。
よって、成績上位者がいなくなれば自分が相対的に上位になる、というような発想が生まれ、自分が努力するのでなく、他人を蹴落としたり、足を引っ張ったりすることで上位になろうとする風潮も生み出したといわれる。
絶対評価と違い点数による明確な基準が無いことから評定ボーダーライン上の生徒たちの優劣は教科担当の教師が決定権を持つためさまざまな問題もおきた。
また、クラスや学年の学業レベルにより、同じ学力を持っていても相対位置が異なれば評定が異なってくるため、「前の学校では5だった生徒が、転校した学校では3になる」とか、その逆の現象も起こりうる。
■ 絶対評価とは?
○ ウィキペディア
絶対評価は、評価のうち、特定の基準に基づいて絶対的に評価する方法。
評価するにあたって、他の生徒の成績を考慮に入れず、生徒本人の成績そのもので評価しようとするものである。
絶対評価には、到達度評価と認定評価のふたつがある。
到達度評価は(目標に準拠した評価ともいう)、予め設定した到達するべき目標に対して、どこまで到達できたかで評価する。
評価規準や評価基準を明確にすることで、評価方法が明確になり、また生徒に評価を返す際にも、生徒自身で自分がどこまで達成できているのかを確認することができるという利点がある。
一方で、評価規準や評価基準の設定や判断は教師によるところが大きい。
評価規準や評価基準による評価が偏って分布することを避けようとする意図のもとに、評価規準や評価基準を設定するのでは、相対評価と何ら変わりはないと批判する者もいる。
認定評価は、教師が公開していない基準、教師の頭の中にある満足のいく成果というものにあわせて評価される。
茶道、華道、書道など芸事に関係するものや理解の深さを判定するようなものの場合は、一般にこれが評価の姿勢にあるが、基準が生徒には分からないため、往々にして教師不信を生み出したり、逆に教師に盲従するといったケースも見られ、人間形成のための評価方法として、これのみで評価することに多くの問題点が指摘されている。
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で・・・
次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?
■ 「目標管理の教科書」
人事評価とは人事考課やボーナス査定と呼ばれるものであり、従業員の会社への貢献度の序列づけ、もしくは貢献度の絶対評価(会社が要求する基準を満たしているかどうかの判定)を意味している。
極端な言い方をすると、人事評価は、会社が従業員に与える”アメとムチ”である。
貢献度にもとづいて、賃金格差をつける。
賃金以外の処遇も決める。
だから、きちんと働いてくれ、働きぶりが良好ならば、褒美を取らす。
ダメならば、ペナルティが待っているぞ。
そういう仕組みが人事評価である。
当然、働く人々は人事評価に敏感に反応する。
おそらく、積極的にアメを獲りに行く人はごく少数で、大多数はムチを避けようとするのではないか。
もちろん、誰だってアメはほしい。
だが、そのためには、気の遠くなるような努力が待っていて、そんなしんどいことは、できれば避けて通りたい。
かといって、強烈なムチで叩かれたのではたまらない。
何とか、普通評価は取りたいものだ。
これが、人々の平均的な人事評価に対する接し方であろう。
このように考えると、人事評価は能動的なモチベーションの策というよりは、むしろ「回避型モチベーション」の促進に貢献しているように思われる。
回避型モチベーションとは、金銭的、あるいは精神的報酬の減額というペナルティを用いて、恐怖心に働きかけようとする方法だ。
人々は恐怖から逃れるために、恐怖を感じない程度に頑張る。
しかし、そこには働く喜びはない。
人事評価は、働く人々にとって、好感を持ってではなく、どちらかというと忌み嫌う仕組みとして受け止められているのが実態である。
■ 「学習する組織 −現場に変化のタネをまく−」
企業の人事制度を設計する前にまず検討しなければならないことは、人事制度の背景にある「フィロソフィ(哲学・思想)」である。
人事についての哲学・思想を実現するために制度がある。
このフィロソフィ(哲学・思想)を明確にしないまま、仕組み・制度を導入すると不具合が生じる。
フィロソフィ(哲学・思想)が明確でないと、人事制度はどうしても機械的な運用になりがちで、より精緻でデジタル的な制度を要求するようになる。
しかし、精緻な制度がどうしても合わない職種もあり、納得感のない制度運用に陥りがちだ。
明確な絶対的尺度で、デジタル的、機械的に評価するのは、制度の仕組みとしては綺麗だが、実際の仕事の重要な部分は測定しづらいものが多く、評価される社員はかえって納得できない。
人事評価で業績を評価する際には、まず測定と判断とに分けて考えなければならない。
業績を測定する際には、できるだけ客観性を高めるために基準を明確にして把握するようにする。
これは業績の対象となる事実を選択し、客観的な尺度を使って測定するので、絶対評価に近くなる。
しかし、測定した事実を解釈して評価段階付けするのは判断である。
判断は何かの価値に照らしてよりどちらが貢献しているのかを決めるので、相対評価にならざるを得ない。
全員が目的を達成したのでA評価とすると、原資が一定ならば、全員が普通の評価(たとえばC評価)と同じである。
これでは、本当に高い成果を出した人や頑張った人が納得できず、かえってやる気を落としてしまい、優秀な人材の流出も起きかねない。
業績評価での価値付けは、組織に対する貢献度を見ることが一般的である。
しかし、組織では様々な仕事をしており、あたかも全体で一つの有機体のように活動しているのが実態だろう。
では、それぞれの業務の貢献度をどのように評価したら納得感があるのだろうか。
それぞれの職種ごとに業績を測定することは、工夫すればできるかもしれない。
個々の職種に合った尺度を見つけて、客観的な基準を設けて測定するのだ。
しかし、異なる職種間で異なる尺度を使って比較ができるのかというと、これが難しい。
計算式で機械的に変換しようとすると、必ず感覚値と合わなくなる。
感覚値と合わなくなると、納得感がなくなってしまう。
「いや、評価は基準を決めたら後は機械的でよいのだ。評価とはそういうものだ」という人もいるが、それでは目的と手段が転倒してしまっている。
そもそも何のために評価をするのかという基本に立ち戻りたい。
評価は、組織のメンバーにラベルを貼るために行なっているのか、それとも順位付けをするために行なっているのか。
いいや、評価というのは、組織のメンバーの達成感とやる気を引き出し、さらなる成長を促し、業績を高めるために行なっているはずである。
そこで、納得感のない評価を行なうのでは、逆効果になるで、やらない方がよいかもしれない。
■ 「なぜ社員はやる気をなくしているのか」
人は、そもそも完全無欠な存在ではない。
誰でも弱みや弱点を持っている。
生身の人間はいかに立派な人間であっても弱点を持っているのだが、それがまた人間らしいと言われる所以でもある。
だが、固定した理想像を前提とした人間観を唱えるようになると、中心になって唱えている人たちは、いつの間にか自分があたかもその理想像の申し子であるかのようにふるまいはじめる。
このような環境のもとでは、中身より形式ばかりを重んじる精神論が横行しやすい。
その結果、権威主義があらゆるところにはびこっていく。
これを温床に、官僚主義や大企業病が組織に蔓延していくのである。
引き算の人間観で人を判断すると、どうしてもまず欠点からその人を見がちである。
そうなると、表向き欠点の少なく見える、組織の論理に過剰適合した無難な人物の評価が、相対的に高まる傾向が強まる。
毒にも薬にもならないような無難な人間、言い換えれば「善意の抵抗勢力」が評価されるから、権威主義だってはびこるのだ。
問題意識が強かったり、事実に対して誠実であったりして、おかしいと思うことはおかしいと言ってしまうような人物は、多くの場合ポテンシャルがある。
ただ、こういう人物はあまり器用でなかったり、自分に正直すぎて「賢さ」がなかったりすることが多く、欠点が目立ちやすい。
賢く立ち回ることが苦手な人が多いのだ。
だから、引き算の人間観から見ると評価は低くなる。
退化を促進する価値観がはびこる組織から、この種の人材が次第にしなくなってしまうのには、このような理由があるのだ。
変革に不可欠な人材は、「足し算の人間観」で高い評価を与えられる人材だ。
足し算の人間観を持つ人は、あるがままの人間をまずそのまま認めて、その人の「個性」を見つけ出そうと努力する。
既成概念にとらわれず、持ち味を見つけていこうとする。
足りない点を指摘することからはじめるのではなく、まず受け入れて、受け止めて、優れた特性を引き出そうとするのである。
■ 「潰れない生き方」
自分がイライラしてしまう、自分が追い詰められてしまうのは、自分の中にある価値観、自分にとっての常識と異なる行動を人がとってしまうからです。
それが身勝手な行動に見えたり、自分を追い込もうとする行動に思えることもあります。
なぜ、自分の価値観、自分の常識どおりの行動をしてくれることを、期待してしまうのでしょうか。
それは、相手の行動が予測でき、しかも相手は自分に対して不利益な行動はしないと事前にわかれば、安心できるからです。
これが信頼感のベースとなります。
ところが自分の周囲には、価値観自体が自分とは異なる人もいます。
「新しいことにチャレンジするのは必ずしも良いこととは言えない」「品質を重視するよりもスピードの方が大事だ」「人が困っているからとすぐに助けたら本人のためにならない」と考える人もいたりします。
このような考え方も一面では正論と言えます。
何が正しく、何が間違っているかを決めるのは、実は極めて困難であり、突き詰めていけば絶対に正しいと言えることはほとんどなくなります。
ことの正否を問うことそのものに意味がないことも多々あります。
正しさや正義というのは、そもそも後からしか決まらないものなのかもしれません。
だから、すべて自分の考えが正論であり、正しいのだ、当たり前なのだ、と考えるのは間違っています。
結局、方向性はそのとき、そのときで、お互いに関わる人たちがいちばん良いと思う考え方を選択するしかないわけです。
自分の価値観に当てはめて、その価値観と異なる行動をとる人が間違っている、その人を正そうとする行為は、自分への傲りなのかもしれません。
人はそもそも、それぞれ異なる価値観や考え方をもっているもの。
いつでも、自分の期待通りの行動をしてくれるわけではないことを、意識しておく必要があります。
■ 「日本語教師のための異文化理解とコミュニケーションスキル」
地球上には絶対的に正しいやり方を独占する文化はなく、それぞれの文化は帰属する集団において妥当なものであるという考え方を文化相対主義といいます。
特定の文化に同化することを強要するのではなく、それぞれの文化を尊重することに主眼をおいています。
多文化共生を目指す考え方です。
異文化摩擦は、お互いが常識と認識していることのずれから始まります。
それぞれの文化で何が常識と考えられているかということにはかなりの隔たりがあります。
私たちは普段、自文化のルールに従って生活していて、他の文化には異なるルールがあるのだろうと漠然と想像しながらも、それはあまり実感を伴うものでありません。
また、自文化のルールも長年の間に深く浸透し、無意識化してしまっていることが多く、異なる文化の異なるルールに直面すると戸惑ってしまい、それを「非常識!」と認定しがちです。
しかし、その異なる文化ではそれは「常識」であったりするのです。
あなたにとっての「常識」と異なる他人の「常識」を、「非常識」ではなく、「新常識」というふうにとらえなおすことが異文化理解の第一歩です。
「常識」といわれるものは共有度の高いものですが、たとえば「礼儀正しい」という価値観は人によってかなり幅があります。
非常に礼儀正しい人から、かなりアバウトな人までいます。
どの文化集団においてもこれは見られる現象で、個人差があることを忘れてはなりません。
私たちは特定の文化に対して知識がないと思っていても、すでに日常の中で習得した何らかの思い込みを持っています。
白紙の状態の人はいません。
大切なのは、相手の文化に対してできるだけ多くの知識を得た上で、同時に、自分の知識がごく限られたものであり、一般化されたものであり、現実に自分が遭遇するものとは異なる可能性があることを十分に認識することです。
この認識がないと、自分の得た限られた情報を普遍化しすぎて「ステレオタイプ」を形成してしまいます。
たとえば、「○○人は謝らない」という思い込みから、状況、条件、個人の性格などを無視した解釈をしてしまうのです。
異文化理解の態度は異文化に関する知識が豊富なだけでは育ちません。
頭も大切ですが、心と体が異文化に開かれていることがもっと大切です。
相手はあなたの気持ちや態度を敏感に察知します。
異文化理解の態度がにじみ出ていると人は近づいてきます。
人間は、理解してもらえると感じると人と自然にコミュニケーションしたくなります。
人によって考え方、感じ方、やり方がいろいろあると考えている人は、自分の考え方、感じ方、やり方を固守しません。
異文化と接するとき大切なのはこの態度です。
正しい答えは一つしかないと考えるのではなく、いろいろあっていいのだと考える。
これは相手に一方的に同調したり、同化したりすることとは明確に異なります。
この幅があると相手の気持ち、感情に共感できるようになりますし、相手の考え方ややり方も受け止められるようになります。
相手の立場に立って考え、感じることができます。
反対に自分の考えを固守する人は相手が同意しないと自己防衛に走り、相手を攻撃したり、感情的な対応をしてしまいます。
共感することと感情的になることは相反する情動です。
異文化理解は常に進行形の過程です。
だから、あせらない、あわてない、あきらめないのが基本です。
■ 「すみません」の国 」
私たち日本人は意見を言えない、グローバルな時代に向けてもっと意見を言えるようにならないといけないといった論調が、マスメディアを通してさかんに聞こえてくる。
それはもっともな意見ではあるが、なぜ意見を言えないのかにもっと目を向ける必要がある。
意見を言えないということには、デメリットばかりでなく、何か良い面もあるのではないか。
そうでなければ、そうした伝統が長く維持されるものではない。
そこで浮上してきたのが、相手を思いやる心である。
イヤと言えない心理も同様だ。
悪く言えば優柔不断ということになるが、良く言えば相手の気持ちを思いやるからこそ、イヤと言えないのである。
自分の気持ちや都合しか眼中になければ、イヤと言うのはいとも簡単なことのはずだ。
そう考えると、イヤと言えないというのは、相手の視点に立つことができ、相手の視点からものを言おうといった、やさしい気持ちのあらわれと言える。
自分のホンネではイヤなのだが、相手の視点に立つとき、どうしてもイヤと言いにくくなってしまう。
何と奥ゆかしい心理構造なのだろうか。
このような、相手の気持ちを思いやり、相手の視点に立つことができる心性は、積極的に評価すべきだろう。
ものごとの多義性に目を向けるほど、自分の視点からの意見を明言しにくくなる。
違う見方もあるはずだという思いがちらつくからだ。
相手の視点に立てるということは、自分の視点を絶対化せずに、ものごとを多面的に見ることができるということにつながる。
一面的にしかものごとを見られない人は、自分の見方を絶対的に正しいと信じ込む。
そうすると、意見の違う相手がいれば、その相手が間違っているとして、対決の姿勢をとることになる。
国家間の対立も、集団と集団あるいは個人と個人の対立も、こうした構図のもとに深刻化していくものといえる。
他者の視点を取り入れることで、利己的なホンネにブレーキをかけることができる。
そうした日本的なコミュニケーションの欠点とされがちな傾向も、見方を変えれば、争いを防ぐ厚みのある二重構造をもっていると肯定的に評価することができるのだ。
■ 「ワークライフシナジー」
日本人の労働時間が諸外国と比較して長いことはすでによく知られている。
特に特徴的なことは、それが若い人に集中していることである。
他方、アメリカも日本に劣らず長時間労働の国であるが、年齢による違いはない。
どちらかというと、アメリカでは報酬の高い人がめちゃくちゃ長く働く傾向がある。
これに対して日本では30代の男性(正社員)の労働時間が長い。
男性ではどの年齢層でも週に60時間以上働く人の割合が増加しているが、30代の割合が40代の割合よりも高い。
労働政策研究・研修機構の研究によると、
「相対的に見れば年収と労働時間は相関しているが、多くの人にとっては「働けば働くほど儲かる」ともいえない」
ことが明らかにされているのだ。
他方、アメリカでは、関係が見られる。
もっとも職種によって違うが、弁護士や投資銀行に勤める人の労働時間は非常に長い。
欧米的なワークライフバランスが即座に日本の職場に導入できないのは、日本では長期の雇用を前提とした雇用制度が作られており、賃金体系や昇進の仕組みなどが欧米とは異なるからである。
それゆえに、欧米で導入され成果を上げている個人のニーズに合わせたワークライフバランス施策に、多くの人が関心を持つものの、それが果たして日本の職場にすんなりと受け入れられるものなのか、疑問の声が上がるのである。
さらに、この制度を補完する形で、税制度や年金制度ができあがっている。
なぜ労働時間の短縮を含む生活大国が、日本で実現できなかったのか。
その答えは、企業がそうしないでも済む抜け道を用意してきたからである。
■ 日本はいつまで「爆買い」に浮かれるのか?
今の日本は外国人にとって「国を挙げてのバーゲンセール」が続いている状態であって、「爆買い」をしている人達というのは大量購入をする、一種の「バーゲンハンター」的な存在です。
この種の人達というのは、バーゲンが続く限りは足しげく通って大量購入をしてくれますが、一方でバーゲンが終わり、その店舗が通常営業に戻ると、次なるバーゲンを求めて他店に移ってゆく。
即ち、相対的により「お得な」国に向かって流れてゆくタイプの消費者であるワケで、そんな顧客に頼って中長期的な観光戦略は立てられないというのが実態です。
1980年代から90年代前半のシンガポールがまさにそのような存在だった。
当時の「バーゲンハンター」であったのは、紛う事なき我々「日本人」。
ところが、シンガポールの国力が上がると、日本人のシンガポール渡航熱は一気に冷め、より相対的な「お得」度の高い香港へとショッピング旅行の対象を切り替えることとなりました。
この当時の日本人観光客の大移動は、1990年代後半から長らく続いたシンガポールの観光産業の低迷の一因であったと言われています。
ところが、今度は立場が変わって何故か日本人が外国人観光客の高い消費力に、文字通り「踊っている」状況が生まれている。
シンガポールの友人はこういうワケです。
「日本はいつまで『爆買い』なんかに浮かれてるのかね?」
シンガポールの人からしてみれば、「オイオイ、日本の観光産業、大丈夫かよ…」となって全く不思議ではないと言えるでしょう。
我々日本人としては「耳の痛い」コメントであります。
■ 「我慢は美徳!?」 強さを強要する“息切れ日本”に抗う力
強い国、強い経済――ね。
そんなに強くならなきゃ、ダメなのだろうか?
強さを主張する人たちは、「グローバル」「世界」「競争」って言葉を多用し、勝つためには、経済的な強さが必要不可欠なのだ、と尻をたたく。
「競争に勝たねば、国はやせ細っていくのだよ。それでもいいのかね?」と問いかける。
競争に勝たなきゃ、と。勝たなきゃダメなんだと、尻を叩く。
その「強さ」への執着が、いささか暴力的に聞こえ、「そんなの無理! 別に強くなくて、いいじゃ〜ん」と、拒絶したくなってしまったのだ。
何に価値を置くかは人によって異なる。
自分にとって価値あるものとは何か?
カネに絶対的価値をおく市場経済に流さないためには、まずはそれを見極め、それを見失うことのないよう踏ん張らなくてはならない。
自分らしく生きるために、自分の人生に納得するためには、自分の大切なものを失わないように、環境に流されないように、大きく足を広げて、地面にしっかり足をつけて、踏ん張る必要がある。
それは、自分の価値観を信じることでもあり、生きる力を失わせない術でもある。
「カネさえあれば、幸せになれるぞ!」とか、「強くなれば、どんな困難も乗り越えられるぞ!」なんてことはありえない。
どんなにカネがあろうとも、ストレスはなくならないし、どんなに強くなったところで、立ちすくむような困難に遭遇する。
それが人生であり、生きること。
大切なのは困難に遭遇したときに、いかにして積極的に対処し、適応するかだ。
我慢することは、現代ではタブーとされている。
だが、自分にとって大切なモノ、価値ある事、それを見失わないためには、ときには踏ん張ることが重要となる。
といっても、どんなに苦しくても耐えろ! というわけじゃない。
■ 絶対的貧困と相対的貧困
貧困の概念には、「絶対的貧困」と「相対的貧困」のふたつがあることはよく知られている。
絶対的な子どもの貧困では、安全な水や栄養のある食糧の確保、基礎的な教育環境の整備などが喫緊の課題だ。
ある意味、その貧困の状況は、多くの人にとって直感的に理解でき、支援の手も差し伸べやすいかもしれない。
一方、相対的な子どもの貧困は、その状況があまり知られてはいない。
はたして日本の子どもの6人に1人が貧困状態にあるとの国民全体の認識はあるだろうか。
日本社会では高校生が家庭の経済的事情で学校を中退した場合、将来的に安定的職業に就くことがとても難しくなる。それが世代を超えた貧困の連鎖を招くことにもつながる。
相対的貧困とは経済面にとどまらず、いじめや虐待など社会の中に潜在化している場合も多く、教育、雇用、福祉等のさまざまな社会制度に基づき発生する複合的な精神的・文化的な窮乏状態だ。
問題の所在や実態、因果関係、経済支援の直接効果などの把握は難しく、豊かな国ゆえの貧困問題とも言える。
■ 相対的貧困率とは何か:6人に1人が貧困ラインを下回る日本の現状
OECD加盟国の相対的貧困率のグラフを見ると、日本が先進国のなかでも「相対的貧困率」が高い国であることがわかります。
子どもがいる現役世帯の相対的貧困率は15.6%であり、そのうち、ひとり親世帯の相対的貧困率は50.8%と、大人が2人以上いる世帯に比べて高い水準となっていることが伺えます。
貧困には「相対的貧困」と「絶対的貧困」の二種類があります。
生きるにあたって、最低限必要と考えられている食料・生活必需品を購入するためのお金がない状況が「絶対的貧困」です。
主に途上国で起きている問題といえます。
先進国での貧困問題は「相対的貧困率」をもとに考えられます。
「相対的貧困」とは、所得の中央値の半分を下回っている人の割合で、つまりその国の所得格差を表している数字です。
日本の所得の中央値が245万円なので、122.5万円以下で生活している人が貧困ラインを下回っているということです。
貧困ラインを下回ったいる人の年収が122.5万円であり、月収でいうと約10.2万円です。
これに当てはまる人が日本だと15.6%、6人〜7人に1人いるということです。
「相対的貧困」は、ときに「絶対的貧困」と同レベルのダメージを人に与えます。
「子どもの貧困」とは、所得が低い家庭の子どもが低学力・低学歴となり、将来不安定な就業に陥ることで、次の世代にまで貧困状態が連鎖していく(=貧困の世代間連鎖)問題です。
このような貧困状態にある子どもは今日本に約6人に1人の割合で存在しており、年々増え続けています。
小学校・中学校は、義務教育ですから、どんな経済状況でも就学援助があり学校に行けます。
しかし、高校になれば、親がリストラや倒産などで経済状況が困窮すると、高校を辞めざるをえなくなったり、その後の進学を諦めなければならない状況になります。
「親がリストラされ、学費が払えない」とか、「保険証をもっていない生徒がいる」など、学びの質の前に生活そのものが困窮している話になることも少なくありません。
「周りのみんなにとっては当たり前の生活が自分だけ享受できない」という状態は、子どもたちに破壊的なダメージを与えます。
そして、「なんで、僕だけ?」 を繰り返した子どもたちは、もうその言葉を言わなくなります。
その代わりに、ある言葉を繰り返すようになります。
それは次のような言葉です。
「どうせ、僕なんて」
「ハングリー精神」なんて言葉がありますが、それには「自分もがんばれば、この状況を脱することができる」という自己効力感があればこその話です。
そもそも圧倒的な格差のなかに長期間置かれた子どもは意欲を喪失し、自暴自棄になってしまうのです。
■ 「夢は正社員」と宣う“上から目線エリート”の権力の乱用
問題の根っこにあるのは、雇用形態ではなく、他者との相対的な格差である。
相対的な格差ほど、人の心に影響を及ぼすものはない。
不平等感が、自尊心を低下させ、やる気を失せさせる。
人間は他者よりも有意な立場にいるときには、さらなる優位性を好み、他者よりも不利な立場にいるときは平等性を重んじる。
実は、厚生労働省は2010年版「労働経済の分析」(労働経済白書)の中で、不安定な働き方が増え、労働者の収入格差が広がった点について、「労働者派遣事業の規制緩和が後押しした」と指摘している。
役所が自ら国の責任を認めたのだ。
その上で、従来の日本型の長期安定雇用システムは、知識や技能の継承などで利点があるとして、旧システムへの回帰を訴えた。
そのときの訴えはどこにいってしまったのか?
50年以上前の1951年にILO(国際労働機関)では、同一労働同一賃金はおろか、「同一価値労働同一賃金」を最も重要な原則として、第100号条約を採択している。
同一労働同一賃金は、雇用形態や性別などに関係なく、同一の職種に従事する人に同一の賃金水準を適用し、労働量に応じて賃金を支払う。
一方、同一価値労働同一賃金は、職種が異なる場合であっても、労働の質が同等であれば、同一の賃金水準を適用するのだ、と。
ニッポン人が大好きな“グローバルスタンダード(世界基準)”は、後者の同一価値労働同一賃金。
世界と勝負するというのなら、なぜ、世界に目を向けない?
優位な立場にいる人ほど自分に甘く他者に厳しい。
「自己責任」という伝家の宝刀をふるえば、どうにでもなる。
機会格差という、競争のスタートラインにすら立てない格差を、“エリート”のみなさまが作り出しているとは、これぽっちも考えやしない。
彼らが持つ権力が、彼らの地位を合理化させるのである。
権力は使い方次第でどうにでもなるから、実に怖い。
■ 「心を高める、経営を伸ばす」
正しい判断を行うには、正しい認識がなされなければなりません。
しかし、この正しく認識するということが非常に難しいのです。
なぜなら、現象というのは、ただ一つの事実しかないのですが、観察者の視点によって左右されるからです。
決して絶対的な事実だけが存在するのではありません。
現象を観察する人の、心のフィルタを通して見るだけに、主観に左右され、ただ一つしかない事実が善にも悪にもなるということを、私たちは日常経験しています。
皆さんは自分の判断基準に照らして、良い悪いを判断しているはずです。
そして、その判断基準の根源をたどれば、道理とか倫理、つまり人として正しいものは何か、という原理原別であるはずです。
正しい判断をするには、自らの中に指標が確立されていなければなりません。
とかく陥りがちな、常識とか慣例などを例に引いた判断行動があってはなりません。
常識や経験だけでは、新しいことに道遇した場合、どうしても解決がつかず、そのたびにうろたえることになるからです。
判断をするということは、問題を自分の中ものさしと照らし合わせて決めるということです。
しかし中には、ものさしを持ち合わせていない人を見受けます。
自分の尺度がないために、世間の常識や先例、他人の助言に自らの判断を委ねてしまっているのです。
■ 「「応援したくなる企業」の時代」
モノを得るのが難しくなるこれからの時代においては、既存のフレームを付与のものとして、そのなかで競うやり方には、やはり限界がある。
「ブルーオーシャン」を望むなら、既存業界の通例にとらわれずに、むしろまったく異なる他業界を参照しながら、みずからの業界の慣習や前提を破り、新しいフレームを再構築する力が求められる。
市場創造型アプローチを取り入れていく必要があるのだ。
だが、これは日本企業の不得意とするところかもしれない。
日本の企業はとかく相対的アプローチに流れてしまいがちだ。
おそらく原因のひとつは、日本人特有の「横を見て」行動する気質にあると思われる。
経済が右肩上がりの成長をつづけていた頃なら、成功企業に追従すれば、2匹目のドジョウを得ることもできた。
しかし、市場が成熟し、お腹を空かせたドジョウ自体が減ったいま、ひと足遅れで柳の下に釣り糸を垂れても、もうドジョウはそこにはいない。
また、成熟したのち、市場そのものが縮小している業界も少なくない。
既存のフレームのなかで、競合企業を意識しながら、わずかな相対的差異をアピールするのではなく、フレーム自体を変えようとしなければ、いまの時代は生活者が真に求めているものをつくり出すのは難しい。
■ 「日本の競争戦略」
日本企業は、品質とコストを同時に改善するというオペレーション効率の視点からのみ競争をとらえているため、競争において持続的な成功を収めることを自ら極めて難しいものにしてしまっている。
ベンチマーキングを実施すればするほど、企業は似通ってくるのだ。
オペレーション効率による決定的なリードを失った日本企業にとっては、低成長と競争の収斂は大きな苦痛をもたらす組み合わせとなった。
オペレーション効率のみに基づいた競争は、相互破壊的であり、消耗戦につながる。
オペレーション効率の絶対的な向上は、どの競争業者の相対的な向上にもつながらない。
もしも、すべての企業が似たり寄ったりの価値しか提供しなかったとすれば、顧客は価格に基づいた選択をせざるを得なくなる。
これは必然的に価格水準を引き下げ、利益を消し去ってしまう。
同時に、競争の収斂は、重複した投資や過剰な生産能力を生み出す傾向につながる。
つまり、オペレーション効率のみで競争してきたことにより、多くの日本企業は自ら仕掛けた罠に掛かってしまっているのである。
日本企業は独自の戦略を持っていない。
継続的改善の積み重ねは、戦略ではない。
戦略を持っている日本企業は稀である。
オペレーション効率は、企業が卓越した業績を追及する2つの方法のうちの一つでしかない。
オペレーション効率とは、同じかあるいは似通った活動を競合他社よりもうまく行うことを意味する。
戦略は、独自のポジションを選択し、それに応じて活動を調整するということにとどまらない。
戦略とは、顧客に価値を提供する上で、トレードオフを行うことである。
つまり、何をしないかという選択が、戦略の核心である。
自社がどういう種類の顧客に対して、どのような製品群を提供し、どのようなニーズに応えようとするのかを決定することは、戦略策定の基本である。
しかし、同様にそれ以外の顧客、ニーズ、機能やサービスを提供しないと決定することも、戦略策定の基本である。
トレードオフが行われなければ、競争は、同じ次元における価値を追及する相互破壊的な争いに陥ってしまい、成功する確率はオペレーション効率だけで決まってしまうことになる。
ほとんどの日本企業が、独自の戦略を欠いている一方で、いくつかの注目すべき例外も存在する。
独自の戦略を持って競争している日本企業は、高い競争力と収益性を維持している。
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うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ〜 (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
ううーむ・・・
それぞれの言葉の意味がわからなければ
気づけないこと、気がつかないこともあるけど・・・
それぞれの言葉の意味だけを見ていても
それぞれの言葉の違いだけを見ていても
気づけないこと、気がつかないこともある
んじゃーないかな〜???
なーんて、感じません? (^^)
他にも、例えば・・・
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などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお〜っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ〜♪
のかも〜???
なーんて、感じません? (〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
と言う訳で、「意味が曖昧な言葉から、自律的に考えて行動してみる」カテゴリとしては、
■ 客観的な視点で考えられる時、主観的になりがちな時との違いって何だろう?
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【追伸2】
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